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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)22 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 ――いかぬ! このままでは、御屋形様に吞まれてしまう。それがしが何とかしなければ! 
 蛮勇を振り絞り、晴信は静寂を破るように、大きく一歩を踏み出す。
 そんな長男の姿に眼をやり、信虎はふんと鼻を鳴らす。
「早く輿を持ってこぬか。ぐずぐずするな、勝千代!」
 低い怒声が飛ぶ。
 その途端、家臣たちの間に鎌鼬(かまいたち)の如く戦慄が走る。
 晴信はそれを背中で感じていた。それから、意を決して声を振り絞る。
「父上、本日は、晴信、一生のお願いをしに参りました」
「……んん、何だ、それは」
「是非とも聞いていただかなければなりませぬ」
「ふん、一生であれ、何であれ、勝千代、お前の願いなど聞く気はないわ。さがっておれ、この戯け者めが!」
 信虎は長男の言葉にまったく取り合わず、吐き捨てた。
「いえ、是が非でも聞いていただかなければなりませぬ。不躾(ぶしつけ)を承知の上で申し上げまする……」
 晴信はさらに一歩を踏み出す。
「父上には本日より御隠居いただき、余生を姉上とともに駿河にてお過ごし願えませぬか」
 きっぱりと言い放った。
「……駿河で隠居?」
 信虎は虚を突かれたように呟く。
「……何の冗談であるか、それは。口を慎め、莫迦(ばか)者が」
「冗談ではありませぬ。これは家臣たちや領民の総意でもありまする! どうか、本日より御隠居をお願いいたしまする!」
 晴信はさらに声を張った。
 ここにきて、ようやく信虎は異変に気づく。
 後方にいた側近たちはすでに事情を察し、蒼白な顔で硬直していた。何より晴信に付き従う面々とその数の多さに度肝を抜かれていたのである。
「父上、どうか、ここから駿府へお戻りいただき……」
 晴信の言葉を遮り、信虎が吠える。
「戯けたことをぬかすな! 勝千代、うぬは黙っておれ!」
 思わず首をすくめたくなるような餒虎の咆哮(ほうこう)だった。
 すでに眠そうな酔眼ではなく、眼は大きく見開かれ、憤怒の光が宿っている。
 その爛々(らんらん)たる視線を晴信の傅役に向け、再び信虎が吠える。
「板垣! これはいったい何の騒ぎであるか!」
 薪が爆ぜる音を消してしまうほどの怒声が響く。
 信方は眦(まなじり)を決して無言で主君を見上げていた。その軆は微動だにしない。
「晴信様が申し上げた通りにござりまする。御屋形様には御隠居していただき、駿府にて御酒や御歌などを愉(たの)しんでいただきとうござりまする」
「……たばかったな、板垣。これはうぬが描いた絵図か?」
「絵図ではござりませぬ。晴信様と同じく、われら家臣一同からのお願いにござりまする。どうか、このまま駿府へと引き返し、御隠居くださりませ」
 信方は静かな声を発し、深く頭(こうべ)を垂れる。
「お願い申し上げまする」
 それを見た重臣たちも声を揃え、次々と頭を下げた。
「おのれ、うぬら……」
 信虎のこめかみに青筋が浮き上がる。
「おのれ、甘利、原、青木!……虎重も、そこにいるのか。うぬらまで余をたばかるか!」
「……どうか、お願い申し上げまする」
 重臣たちは膝に両手を置き、深々と頭を下げる。
 何とか主君の怒りを鎮めたいという気持ちがこめられていた。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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