「板垣、御隠居のお願いは、余から父上に言上いたしたいと思う」 晴信はそれだけを言い、口唇を真一文字に結んで幔幕の外へと歩き出す。 「御意!」 信方も短く答え、晴信の後を追った。 信繁と甘利虎泰もそれに従う。 先ほどの篝籠が、晴信の眼に留まる。 ――紅蓮に魅入られた蛾。それが凶兆であろうと、瑞兆であろうと、今は何も考えまい。虚心坦懐に眼前の事柄と向き合うだけだ。 そう思いながら、晴信は立ち止まり、しばらく燃えさかる焔を見つめていた。 「兄上、どうかなされましたか?」 信繁が怪訝そうな顔で訊く。 「……いや、何でもない。紅蓮が眼に沁みただけだ」 晴信は硬い笑みを見せ、弟の肩を叩いた。 幔幕を出ると、すでに重臣たちと手勢が勢揃いし、人馬が通れる幅だけ逆茂木が開けられていた。その面には焦燥による疲労の色が浮かんでいる。 ――皆、さぞかし肝を焼いていたことであろう。意気が消沈せぬよう、何とか鼓舞せねば……。 晴信は大きく息吹を行ってから、家臣たちを見回す。 「皆、待たせてすまぬ。間もなく、御屋形様がこちらへ到着なされる!」 腹の底から声を振り絞る。 「これより御屋形様への面訴を行う! それがし御隠居を念願するゆえ、皆、しかと見届けてほしい!」 晴信の気合をこめた言葉に、衆目が集まり、魂魄(こんぱく)の震えが伝わった。 家臣たちは押し殺した息を吐き、小さく頭を下げた。 先頭まで歩み出た晴信は、胸を張って前方を見つめる。その傍らには、奥歯を嚙みしめた信繁が寄り添う。 両脇に信方と甘利虎泰が控え、その少し後方に原昌俊、青木信種、飯富(おぶ)虎昌(とらまさ)、諸角(もろずみ)虎定(とらさだ)、小山田(おやまだ)虎満(とらみつ)らの重臣たちがずらりと並んだ。その中には信虎の近習頭(きんじゅうがしら)である荻原(おぎわら)虎重(とらしげ)の姿まである。 もちろん、各武将も緊張した面持ちで、信虎の一行が現れるのを待ち構えた。 万沢の空気がひりつき、肌に痛いほどだった。 寸刻を経て、遠くからゆっくりとした蹄音(あしおと)が響いてくる。やがて、宵闇の中に二十騎ほどの影が見え、それが近づいてきた。 それに合わせ、晴信の鼓動も高まってゆく。 誰もが息をつめて前方の一団に眼を凝らした。 相手もようやく眼前の異変に気づいたようで、少し離れた処で次々と馬を止める。篝火に浮かびあがる逆茂木を、馬上からいぶかしげに眺めていた。 その一団の中から、ひときわ美装の一騎がゆっくりと進み出てくる。 それは信虎、その人であった。 ゆっくりと愛駒を止め、眠そうな眼で居並ぶ家臣たちを見回す。その視線は、一人を射抜いて止まった。 「……勝千代(かつちよ)、なにゆえ、かような処に、そなたがおる?」 それから、眉間に皺(しわ)を寄せ、晴信の隣に眼を凝らす。 「ん?……信繁か。そなたまで一緒とは……。そうか、われらの帰還があまりに遅いので出迎えに参ったか。大儀であった。ところで塗輿は用意してきたか。少々、騎乗に疲れたわ」 信虎は大きく伸びをしてから、生欠伸を嚙み殺す。 まだ事態が呑み込めていないようだった。 家臣たちが一斉に緊張し、主君との間にある宵闇がささくれ立っているように感じられる。 そして、しばしの沈黙が両者を包んだ。