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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)22 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「板垣、御隠居のお願いは、余から父上に言上いたしたいと思う」
 晴信はそれだけを言い、口唇を真一文字に結んで幔幕の外へと歩き出す。
「御意!」
 信方も短く答え、晴信の後を追った。
 信繁と甘利虎泰もそれに従う。
 先ほどの篝籠が、晴信の眼に留まる。
 ――紅蓮に魅入られた蛾。それが凶兆であろうと、瑞兆であろうと、今は何も考えまい。虚心坦懐に眼前の事柄と向き合うだけだ。
 そう思いながら、晴信は立ち止まり、しばらく燃えさかる焔を見つめていた。
「兄上、どうかなされましたか?」
 信繁が怪訝そうな顔で訊く。
「……いや、何でもない。紅蓮が眼に沁みただけだ」
 晴信は硬い笑みを見せ、弟の肩を叩いた。
 幔幕を出ると、すでに重臣たちと手勢が勢揃いし、人馬が通れる幅だけ逆茂木が開けられていた。その面には焦燥による疲労の色が浮かんでいる。
 ――皆、さぞかし肝を焼いていたことであろう。意気が消沈せぬよう、何とか鼓舞せねば……。
 晴信は大きく息吹を行ってから、家臣たちを見回す。
「皆、待たせてすまぬ。間もなく、御屋形様がこちらへ到着なされる!」
 腹の底から声を振り絞る。
「これより御屋形様への面訴を行う! それがし御隠居を念願するゆえ、皆、しかと見届けてほしい!」
 晴信の気合をこめた言葉に、衆目が集まり、魂魄(こんぱく)の震えが伝わった。
 家臣たちは押し殺した息を吐き、小さく頭を下げた。
 先頭まで歩み出た晴信は、胸を張って前方を見つめる。その傍らには、奥歯を嚙みしめた信繁が寄り添う。
 両脇に信方と甘利虎泰が控え、その少し後方に原昌俊、青木信種、飯富(おぶ)虎昌(とらまさ)、諸角(もろずみ)虎定(とらさだ)、小山田(おやまだ)虎満(とらみつ)らの重臣たちがずらりと並んだ。その中には信虎の近習頭(きんじゅうがしら)である荻原(おぎわら)虎重(とらしげ)の姿まである。
 もちろん、各武将も緊張した面持ちで、信虎の一行が現れるのを待ち構えた。
 万沢の空気がひりつき、肌に痛いほどだった。
 寸刻を経て、遠くからゆっくりとした蹄音(あしおと)が響いてくる。やがて、宵闇の中に二十騎ほどの影が見え、それが近づいてきた。
 それに合わせ、晴信の鼓動も高まってゆく。
 誰もが息をつめて前方の一団に眼を凝らした。
 相手もようやく眼前の異変に気づいたようで、少し離れた処で次々と馬を止める。篝火に浮かびあがる逆茂木を、馬上からいぶかしげに眺めていた。
 その一団の中から、ひときわ美装の一騎がゆっくりと進み出てくる。
 それは信虎、その人であった。
 ゆっくりと愛駒を止め、眠そうな眼で居並ぶ家臣たちを見回す。その視線は、一人を射抜いて止まった。
「……勝千代(かつちよ)、なにゆえ、かような処に、そなたがおる?」
 それから、眉間に皺(しわ)を寄せ、晴信の隣に眼を凝らす。
「ん?……信繁か。そなたまで一緒とは……。そうか、われらの帰還があまりに遅いので出迎えに参ったか。大儀であった。ところで塗輿は用意してきたか。少々、騎乗に疲れたわ」
 信虎は大きく伸びをしてから、生欠伸を嚙み殺す。
 まだ事態が呑み込めていないようだった。
 家臣たちが一斉に緊張し、主君との間にある宵闇がささくれ立っているように感じられる。
 そして、しばしの沈黙が両者を包んだ。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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