連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)22 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 面談は無事に終わり、太原雪斎と岡部久綱を囲んでの酒宴となった。
 信方は雪斎とさしで酒を酌み交わす。
「……ところで、御屋形様……あ、いや、御隠居様はいかがなされておられますか?」
 声を潜め、信方が雪斎に囁きかける。
「駿府にお戻りになられた時は激怒なされており、当家に兵を貸せと喚き散らしておられました。されど、それはできませぬとお断りしましたならば、三日間はお怒りのまま、とにかく兵を貸せ、と」
「それで?」
「当家が兵を出さぬとわかってからは、御酒を所望なされ、毎日お倒れになるまで吞んでおられました。されど、七日も経つと少し飽きられたのか、泥酔することもなくなり、今は御歌など詠みながら、静かに過ごされておりまする」
「まことに?」
「まことに。諦めがついたのではありませぬか。あるいは、重荷を下ろされ、少し安堵なされたのやもしれませぬ」
「安堵?……それはいかなる意味にござるか」
「荒れた領国の立て直しは、戦と違い、大変に重圧のかかるお仕事にござりまする。信虎様も甲斐の立て直しを放棄なされたわけではなく、いつも考えておられたのだと思いまする。されど、それは一人で考えきれるものではなく、多くの家臣たちの智慧(ちえ)も使わねば、とても支えきれるものではありますまい。信虎様の御気性からすれば、家臣に弱味を見せるようで、そのことすらも煩(わずら)わしかったのでは」
「家臣に弱味を見せるのは許せぬ、と」
 信方は溜息交じりで呟く。
「主君というものは、たまに家臣に弱味を見せた方が慕われまする。ただ、それができぬ御方もおりまする」
「なるほど」
「領国の立て直しという重荷を晴信様と家臣たちに預け、信虎様は安堵なされたのではありませぬか。もちろん、これはそれがしの拙い推測にすぎませぬが」
「拙いとは、これまたご謙遜を。そなたがさように申されるならば、おそらく、その通りなのでありましょう」
「お褒めいただき、恐縮にござる。ささ、どうぞ」
 雪斎は信方に一献を酌す。
「おお、かたじけなし」
「晴信様ならば、甲斐の再建は間違いなく完遂できましょう。そのために家中もすでに刷新しておられるとは、まったく懼れ入りました。それに、若くして不思議な気配をお持ちの御方にござりまするな」
「どのあたりが不思議と?」
「弱味どころか、あのように素を見せられる御方は、なかなかおりませぬ。それでいて、凡庸ではない。器量が計り知れませぬ。もちろん、これからもっと大きくなるということも含め」
「そなたにそう言ってもらえると、それがしも嬉しい」
 信方も雪斎に一献を返す。
「かたじけなし。義元様とも早くお引き合わせしたいものだ」
「二人で機会を見繕いましょう。今後とも、よろしくお願いいたす、雪斎殿」
「こちらこそ、板垣殿」
 最初は曲者と思っていた太原雪斎と、信方は旧友のような関係になりつつあった。
 翌日、今川の使者は代替わりで落ち着きを取り戻した甲斐の新府を後にした。
 晴信と信繁、信方、甘利虎泰、原昌俊を中心に甲斐の再建に向けた取り組みも着々と進められる。
 何より大きく変わったのは、家臣の合議によって執政の大筋が決められるようになったことである。これは晴信のたっての願いだった。
 若き惣領を先頭に、武田一門は新たな船出を果たした。
 しかし、周囲の情勢もまた大きく変化する。
 七月に入ると、海野(うんの)棟綱(むねつな)を庇護(ひご)していた山内上杉(やまのうちうえすぎ)憲政(のりまさ)が、武田の代替わりを知り、箕輪(みのわ)城主の長野(ながの)業政(なりまさ)を総大将として佐久(さく)郡へ出兵してきた。
 さらに相模(さがみ)の小田原では、信虎の旧敵であった北条(ほうじょう)氏綱(うじつな)が逝去し、ここでも代替わりが行われる。太原雪斎の預言通り、北条氏康(うじやす)が齢二十七の身空で新たな惣領となった。
 晴信と武田家を取り巻く状況は難しくなり、更なる試練の時を迎えた。

第二部 〈了〉



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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