晴信もそれなりの覚悟をして、この場に臨んだつもりでいた。 それでも、先刻までは、この正念場にいる現実感が希薄だった。ずっと足下の感覚が危うく、どこか雲の上にでもいるような心地がしていた。 おそらく、それは己の心に巣くう拭いがたい不安の裏返しなのだろう。 しかし、傅役が発した決死の言葉を聞き、一遍で目が覚めた。 ――父上に御隠居を談判する。それは生半可なことではあるまい。父上から生の半分を奪うようなものなのだ。この身はそれをわかったつもりでいながら、わかった振りをしていただけなのかもしれぬ。力尽くで武田を嗣ぐという我を押し通すからには、今ここで板垣と同等の覚悟を持っていなければならぬ。 信方の決心に較べれば、己の覚悟がいかに中途半端であったかを一瞬にして悟ったのである。 ――これ以後、何が起きても、己が父上の代わりに武田を率いてゆくという決心を貫く! 傅役を見つめ返す晴信の両眼に、これまでにない強い光が宿った。 それを見て取った信方は、静かに睫毛(まつげ)を臥(ふ)せる。 ――己の担いだ漢が、やっと真の覚悟を決めてくれた。 それが痛いほど伝わっていた。 「板垣、父上は予想よりも遅いが、何か不測の事態があったと思うか?」 晴信の問いに、信方が頷く。 「何かあったとは、思いまする。されど、不測の事態ではありますまい。御屋形様は予定どおりに駿府を出立なされておりまする」 雪斎からの早馬で、信方は信虎一行が午前(ひるまえ)に今川館を出発したことを摑んでいた。 だが、その後の動向まで正確に把握していたわけではなく、信虎がどこかへ寄道などしていれば、大幅に到着が遅れることもあり得た。 ――駿府を出た後、御屋形様がどこかで遊山なさり、御酒など召し上がられたのであれば、これだけの遅れになることもあるだろう。もしかすると、国境を越えた南部(なんぶ)宿辺りで御一泊なさるおつもりで動いておられるのやもしれぬ。 「若、遅くなろうとも、御屋形様は必ずこの万沢までは参られまする」 「さようか……」 晴信は思案顔になる。 しばらく何事かを考えていたが意を決したように信方に言う。 「板垣、頼みがある」 「何でござりましょう」 「父上がこちらに参られる前に、信繁と話をしておきたい。ここへ呼んでくれぬか」 「さようにござりまするか」 信方には気懸かりもあった。 信虎への面訴の前に、兄弟が話をして心が揺れないかという心配である。 しかし、その危惧を振り払い、信方は頷く。 「わかり申した。すぐに、お連れいたしまする」 素早く踵(きびす)をかえし、晴信の弟を呼びにいった。 間もなく、傅役の甘利虎泰に付き添われ、不安そうな面持ちの信繁が現れる。 「兄上、いかがなされました?」 信繁は上目遣いで訊ねる。 「ちょっと、二人で話がしたくなってな」 「さようにござりまするか……」 戸惑いがちな弟の肩を抱き、晴信は二人きりになるため幔幕(まんまく)内へと入った。 次郎と呼ばれていた次男は、この年で齢十七となっている。幼少の頃から文武両道に秀でており、父から溺愛されてきた。その偏愛ぶりは、家臣の間で兄の廃嫡がまことしやかに囁(ささや)かれるほど、あからさまなものだった。 しかし、この弟はずっと聡明な兄を尊敬しており、今回の件では家臣たちが説得するまでもなく、晴信に従うことを選んだ。