「信繁、何をぐずぐずしておる。早く来ぬか。蒙昧(もうまい)な小者が上に立てば、武田はあっという間に潰されるであろう。それゆえ、そなたは余の傍(そば)におり、時がきたならば武田を嗣げばよい。だから、一緒に駿河へ参るぞ。よいな」 信虎は少し表情を緩めて次男に語りかける。 「父上様、申し訳ござりませぬ」 信繁も背を伸ばし、真っ直ぐに父の顔を見つめる。 「信繁は……、信繁は兄上についていきまする。お許しくださりませ!」 かすれそうになる声を振り絞って叫んだ。 次男の思いも寄らぬ言葉を聞いた信虎は、馬上で小首を傾げる。 それから昏(くら)い夜空を見上げ、呆然と呟く。 「……なにゆえじゃ、信繁。なにゆえ、そなたまで……」 「懼(おそ)れながら申し上げますれば、甲斐一国のためにござりまする。父上様の御寵愛は一生忘れませぬ。されど、この一身は兄上に捧げ、生涯、お支え申し上げる覚悟にござりまする」 信繁も己の気持ちを言い切った。 それを聞いた時の父の顔を、晴信は生涯忘れないだろうと思った。 信虎の面相はまるで魂魄を引き抜かれたかのように、一気に年老いて萎(しぼ)んだように見えた。鬼が哭(な)くような、笑っているような、いわく表現し難いほど悲痛な顔だった。 それから、しばらく返す言葉もなく、信虎は驚愕したまま馬上に佇(たたず)んでいた。 そして、やっとのことで口を開く。 「……では、信繁。ここで今生の別れとなるが、それでも良いのだな」 「はい。……身勝手をお許しくだされませ」 信繁は膝に両手を当て、深々と頭を垂れる。 その両眼からは、止め切れなかった大粒の泪(なみだ)が滴り落ちた。 篝火の紅蓮が泪に映え、晴信にはまるで弟が血涙を流しているように見えた。 「さようか……」 今度は信虎が声を振り絞る番だった。 「晴信、うぬにひとつだけ訊いておく」 父が初めて己の乙名(おとな)を呼んだことに、晴信は驚きを隠せない。 「なにゆえ、余が隠居せねばならぬのだ? それを、うぬの口から答えてみせよ」 その問いに、晴信は丹田(たんでん)に力をこめ、よく通る声で答える。 「疲弊し切った領国を立て直すためにござりまする。家臣と領民を安寧に導くため、今の甲斐に必要なのは戦ではなく、新しい政(まつりごと)だと思いまする。それならば、父上にはお休みいただき、この身が泥にまみれて役目をこなすべきではないかと思いました」 その答えに反論する父の言葉はなかった。 再び静寂が辺りを包む。 しばしの沈黙の後、信虎はゆっくりと右手を挙げ、土屋昌遠をはじめとする側近の者に声をかける。 「駿府へ……参るぞ」 大きく手綱をひき、馬首を返そうとする。 愛駒はいななきを発して前足を蹴り上げ、竿(さお)立ちになりながら馬体を南の方角に向ける。それから、一気に駿河へ向けて駆け出した。 土屋昌遠ら側近の者たちの駒もそれに続く。 晴信は必死で嗚咽(おえつ)を止めようとしている弟の肩を抱き、遠ざかる父の後姿を見つめた。