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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)22 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「信繁、何をぐずぐずしておる。早く来ぬか。蒙昧(もうまい)な小者が上に立てば、武田はあっという間に潰されるであろう。それゆえ、そなたは余の傍(そば)におり、時がきたならば武田を嗣げばよい。だから、一緒に駿河へ参るぞ。よいな」
 信虎は少し表情を緩めて次男に語りかける。
「父上様、申し訳ござりませぬ」
 信繁も背を伸ばし、真っ直ぐに父の顔を見つめる。
「信繁は……、信繁は兄上についていきまする。お許しくださりませ!」
 かすれそうになる声を振り絞って叫んだ。
 次男の思いも寄らぬ言葉を聞いた信虎は、馬上で小首を傾げる。
 それから昏(くら)い夜空を見上げ、呆然と呟く。
「……なにゆえじゃ、信繁。なにゆえ、そなたまで……」
「懼(おそ)れながら申し上げますれば、甲斐一国のためにござりまする。父上様の御寵愛は一生忘れませぬ。されど、この一身は兄上に捧げ、生涯、お支え申し上げる覚悟にござりまする」
 信繁も己の気持ちを言い切った。
 それを聞いた時の父の顔を、晴信は生涯忘れないだろうと思った。
 信虎の面相はまるで魂魄を引き抜かれたかのように、一気に年老いて萎(しぼ)んだように見えた。鬼が哭(な)くような、笑っているような、いわく表現し難いほど悲痛な顔だった。
 それから、しばらく返す言葉もなく、信虎は驚愕したまま馬上に佇(たたず)んでいた。
 そして、やっとのことで口を開く。 
「……では、信繁。ここで今生の別れとなるが、それでも良いのだな」
「はい。……身勝手をお許しくだされませ」
 信繁は膝に両手を当て、深々と頭を垂れる。
 その両眼からは、止め切れなかった大粒の泪(なみだ)が滴り落ちた。
 篝火の紅蓮が泪に映え、晴信にはまるで弟が血涙を流しているように見えた。
「さようか……」
 今度は信虎が声を振り絞る番だった。
「晴信、うぬにひとつだけ訊いておく」
 父が初めて己の乙名(おとな)を呼んだことに、晴信は驚きを隠せない。
「なにゆえ、余が隠居せねばならぬのだ? それを、うぬの口から答えてみせよ」
 その問いに、晴信は丹田(たんでん)に力をこめ、よく通る声で答える。
「疲弊し切った領国を立て直すためにござりまする。家臣と領民を安寧に導くため、今の甲斐に必要なのは戦ではなく、新しい政(まつりごと)だと思いまする。それならば、父上にはお休みいただき、この身が泥にまみれて役目をこなすべきではないかと思いました」
 その答えに反論する父の言葉はなかった。
 再び静寂が辺りを包む。
 しばしの沈黙の後、信虎はゆっくりと右手を挙げ、土屋昌遠をはじめとする側近の者に声をかける。
「駿府へ……参るぞ」
 大きく手綱をひき、馬首を返そうとする。
 愛駒はいななきを発して前足を蹴り上げ、竿(さお)立ちになりながら馬体を南の方角に向ける。それから、一気に駿河へ向けて駆け出した。
 土屋昌遠ら側近の者たちの駒もそれに続く。
 晴信は必死で嗚咽(おえつ)を止めようとしている弟の肩を抱き、遠ざかる父の後姿を見つめた。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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