「信繁、さきに謝っておく。すまぬな」 「兄上、なにゆえ、さようなことを……」 信繁は訝(いぶか)しげな面持ちになる。 「やはり、そなたを巻き込んでしまったことに忸怩(じくじ)たる思いを拭いされぬ。父上のお気持ちを考えれば尚更だ」 「兄上……」 「信繁、まことに、後悔はないのか? この場にいるのが辛ければ、躑躅ヶ崎館へ戻っていてもよいのだぞ」 晴信はなしくずしの笑顔で言う。 「何を申されまするか、兄上。もう決めたことにござりまする」 まだ童(わらわ)の面影の抜けない信繁は、いくぶん頬を紅潮させながら答える。それから、憮然(ぶぜん)とした面持ちで慣れぬ甲冑(かっちゅう)の着付けを直した。 この弟はまだ初陣を済ましたばかりである。そして、次に鎧(よろい)を身につける機会が、溺愛してくれた父を隠居させるためという皮肉な成り行きとなってしまった。 「まことに、これでよいと思っているのか?」 この期に及んでも、晴信は父を裏切るという重荷を、弟に背負わせることを心苦しく思っている。 理由もわからずに疎まれ続けた己とは違い、信繁は常に父親の情愛を受け続けてきたからである。 「はい、後悔はいたしませぬ」 「父上はお前をこよなく愛(め)でてこられた。そして、武田を嗣ぐことを望んでいたのだぞ」 「兄上。父上が何と申されても、信繁にさようなつもりがないことは、皆の前でもはっきりと申し上げたではありませぬか。父上には……」 そう言いかけた信繁の瞳が微かに潤んでいる。 「……父上にはまことに申し訳なく思いますが、信繁の気持ちは変わりませぬ。父上だけがいくらこの身に家督を嗣がせたいと申されても、家臣たちの心がひとつにまとまらなければ、武田の惣領とはなれませぬ。逆に、それを裏切ったのでは、甲斐一国がばらばらになってしまいまする。信繁は家臣や疲弊し切った領国のために、兄上が武田を嗣ぐべきだと心底から思っておりまする」 それは実に聡明な答えであり、決して誰かに吹き込まれたものではなく、信繁が自分で考えた言葉だった。 ――何ともはや、見事な返答だ。 晴信も感服する。 ――これひとつとってみても、父上が信繁を愛でていた理由がわかるような気がする。されど、この弟は武田の内訌を望まず、この身を選んでくれた。それに報いるためにも、誰の血も流さず、何とか穏便にことを済まさねばならぬ。 「信繁。ならば、この兄も命尽きるまで、そなたと共に歩むことを誓おう。本日は父上に無理なお願いをせねばならぬが、その時も傍らにいてくれるか」 晴信は弟の両手を握りながら訊く。 「はい、決して離れることなく」 神妙な面持ちで信繁が両手を握り返した。 その顔を見て、晴信の心は完全に固まる。 「かたじけなし」 もう、何の迷いもなかった。 手を握り合う二人の姿を見て、信方と甘利虎泰は小さく安堵(あんど)の息を吐く。 幔幕内から出てきた晴信が、二人の傅役に声をかける。 「板垣、甘利。手間を取らせて悪かった。もう、じたばたせずに、父上のご到着を待とう」 「御意! 若、念のために物見を出しておきまする」 そう答えてから、信方は跡部信秋の処へ行く。 「跡部、物見を頼めるか」 「ご下命があるかと思い、辻々に間諜の者を忍ばせておりまする」 「さようか。ここまでの時刻とならば、何らかの理由で御屋形様のご予定が大きく変わったということもあり得る。国境ぎりぎりの処まで人を出して様子を探ることはできぬか」 「そういうことであらば、それがしが手下を連れて直(じか)に物見へ出とうござりまする」 「そなたがやってくれると助かる」 信方は初陣の時の働き以来すっかりこの漢を信用していた。 「道沿いに人を配し、何か動きがあり次第、こちらへ報告に向かわせまする」 「よろしく頼む」 「さて、参るぞ」 跡部信秋は最も信頼している手下たちを連れて陣を出た。