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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)22 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「若、てっきり武者震いでもなされているかと思いきや、思いの外、落ち着かれておりまするな」
 傅役(もりやく)の言葉を聞き、晴信が睨みつける。
「……戯(ざれ)るな、板垣(いたがき)。震えたくとも、思うように軆(からだ)が動かぬ。本当は木偶(でく)の如く見えると言いたいのであろう?」
 緊張のために己が彫像の如く固まっていることを自覚していた。
「いえいえ、木偶などとは滅相もござりませぬ」
「嘘を申すな」
「いえいえ、まことにござりまする。この板垣めには、若がしっかりと大地を踏みしめて立っておられると見えましたが」
「まことか?」
「まことにござりまする。並の者が若のような立場に置かれれば、すぐにこの場を逃げ出したくなって右往左往いたすはず。もしも、この身がさような場に臨めば、おそらく仁王立ちというわけにはまいりますまい。檻(おり)にいれられた猿の如く、そわそわと動き回ってしまうに違いありませぬ」
「さようか……」
「ええ、おそらくは。それは、われらの中で最も肝の据わった甘利をもってしても同様にござりましょう。若、あれをご覧ぜよ」
 信方は苦笑を浮かべながら甘利虎泰を指す。
 家中でも指折りの剛胆者が鬼瓦のような面持ちで、信繁の周囲を落ち着きなく動き回っていた。
 その様子を見た晴信も、思わず苦笑を洩らす。
 それから、強ばった軆をほぐすように、ゆっくりと息を吸い込んでから吐いた。
「甘利は、特に気が重いのであろう。信繁が父上の御寵愛(ごちょうあい)を受けていただけに……」
「そうかもしれませぬな。されど、若、これから始まるのは、戦ではござりませぬ。御屋形様とのお話し合いにござりますゆえ、無用な力はお抜きくださりませ」
 信方が言った通り、これは合戦ではなく、この場で父の信虎に隠居を願うだけのことだった。
 しかし、隠居と言えば聞こえは良いが、家臣たちはいずれも得物(えもの)を携えた手勢を連れており、実質は謀叛すれすれの強行策である。
 当の信虎はまさか留守の間に、己の隠居を画策する動きが起こっているとは思っていない。それどころか、廃嫡しようとまで考えていた嫡男が、重臣たちに担がれるまま己に引導を渡しに来ているなどとは、露ほども考えていないはずだった。
「されど、板垣。まことに、これでよかったのであろうか?」
「若、今さら、何を申されまするか。われら皆で揃って決めたことではありませぬか。いわば、これは武田家家臣の総意にござりまする。これからの武田家を若に背負うてもらうため、皆で出張ったからには、もう後には退けませぬぞ」
「わかっている。それは重々承知しているのだが……」
 晴信は苦しげな表情で言葉を絞り出す。
「……面訴とは申しても、父上にしてみれば、この身や皆に背かれたも同然。黙って願いを聞いてくださるはずもあるまい」
 父の信虎は家臣からさえも餒虎(だいこ)と怖れられるほど気性の激しい漢(おとこ)である。
 餒虎とは、唐語で「飢えて牙を剥く虎」を意味する言葉だった。
 これまで万事を独断で決めてきた主君が、家臣たちから一方的に隠居を請われても素直に従うはずがない。しかも、この年で齢(よわい)四十八になったばかりであり、己が若隠居をしなければならない理由など、自覚しているはずもなかった。
 餒虎の主君が怒りにまかせて暴れ始めれば、いったいどうなるのか、誰にも予想がつかない。
「御屋形様に御隠居の願いを聞いていただくため、皆の者が気持ちを揃えてお待ちしておりまする。それをご覧になれば、必ずや、われらの真意をご理解していただけましょう。ご心配召されまするな」
 信方はきっぱりと言った。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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