「揃いも揃って目端の利かぬ者どもめが。よいか、勝千代の如きの者に跡を嗣がせたならば、武田はあっという間に滅びるぞ! そんなこともわからぬのか、莫迦者どもめが!」 信虎は仁王立ちしている晴信に馬鞭(ばべん)を差し向けて叫ぶ。 「そ奴は童(わっぱ)の頃から人の顔色を窺(うかが)い、人の興を買うことばかり考えている追従者だ。さような者に武田の跡をまかせるわけにはいかぬ。信繁ならまだしも、晴信に嗣がせるなど笑止千万!」 憎しみのこもった笑みを浮かべ、信虎はついに本音を吐露した。 それを聞いても、晴信は眉ひとつ動かさない。 「……父上が……いえ、御屋形様がこの身をいかように思われましても結構にござりまする。されど、これより先、甲斐にお戻りになれる場所はありませぬ。それゆえ、ここをお通しするわけにはまいりませぬ」 ここが正念場だった。 父親が最も聞きたくない言葉を、晴信は明確に言わなければならない。胆力の勝負である。 「甲斐ではすでに御隠居もままなりませぬゆえ、どうか駿河へお戻りになって姉上をお訪ねくださりませ。そこならば、安寧に余生を過ごすことができまする。今川家もそれを歓迎しておりますゆえ、何卒、御願い申し上げまする」 思いの外、冷静な声を出す長男を見て、父の顔がみるみるうちに真っ赤になる。 「そこになおれ、勝千代! いますぐ、素っ首落としてくれるわ!」 信虎は佩刀(はいとう)を抜き放ち、駒の背から下りようとする。 「御屋形様、お待ちくださりませ!」 信方が鋭く叫ぶ。 「下馬なされてはなりませぬ!」 その声に、一瞬だけ信虎の動きが止まる。 「御刀を抜かれたまま下馬なされますと、この板垣めがお相手せねばならなくなりまする」 刀の鍔(つば)に指をかけ、信方は主君の顔を見上げる。 「ほう、ついに本音が出たな、板垣」 信虎は凄(すさ)まじい形相で家臣を見下ろす。 「面白いではないか。うぬの如き下郎に、余が斬れるのか?」 「どうあれ、わが首は御屋形様に差し上げまする。されど、その前に、お相手はさせていただきまする」 「おいおい……。誰か、この莫迦者の首を刎(は)ねて、黙らせぬか! 甘利、虎重、うぬらで板垣を斬れ!」 信虎は甘利虎泰と近習頭の荻原虎重に命じる。 「申し訳ござりませぬ、御屋形様。できませぬ」 二人は声を振り絞り、頭を垂れる。 信虎の眼前に並んだ家臣たちの瞳にも強い意志が宿っており、信方の言葉がどれほど本気であるかを物語っていた。 「うぬら、余を屍(かばね)にしてまでも、この戯け者に跡を嗣がせようというのか! これまでの恩を仇(あだ)で返してまでも、出来の悪い倅(せがれ)に武田をまかせるというのか!」 信虎は刀を突きだして怒鳴る。 「御屋形様、斬る斬らぬの前に、これをご覧くださりませ」 信方が胸元から一通の書状を取り出す。 「何だ、それは?」 訝しげな視線を投げかけ、信虎が眼を凝らす。 「亡き朝霧(あさぎり)の御方(おかた)様の侍女でありました立花(たちばな)殿からの書状にござりまする」 「朝霧?……侍女の立花……ああ、扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)からの嫁か。それがどうした」 「ここには朝霧の御方様がお亡くなりになられた原因が詳細に記されておりまする。これをお渡しいたしますので、どうか御刀をお収めになられ、下馬なさらぬよう、お願い申し上げまする」 それが信方の用意していた切札だった。 その意味がわかっているのは、晴信と信方をはじめとする数名だけである。 だが、最も熟知しているのは、信虎当人だった。