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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)22 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 晴信と重臣たちは、このまま信虎に甲斐の土を踏ませず、駿河へ戻ってもらうつもりだった。
 今川家とはすでに内密の話がついており、嫁いだ娘の処で酒や歌を嗜(たしな)む楽隠居の暮らしをおくってもらうことになっている。内訌(ないこう)の果てに代替わりをした今川家としても、毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい信虎が甲斐に君臨しているより、新しい惣領である今川義元(よしもと)と世代の近い甲斐の嫡男が跡を嗣いでくれれば、対等以上に同盟を維持できるという判断をしていた。
 義元の軍師となった太原(たいげん)雪斎(せっさい)は、密かに信方を通じて武田の重臣と示し合わせ、代替わりを支援している。
『今川家が駿河に隠居所を用意し、武田がその費用をすべて持つ』
 そのような密約が交わされていた。
 晴信が新たな武田の惣領となるためのお膳立ては、すでに調っている。
 ――あとは、何とか無血のうちに代替わりを済ませたい。
 それが重臣たちの本音だった。
「されど、板垣。このまま穏便にことが済まねば、無用な血が流れてしまうかもしれぬ」
 晴信は苦い言葉を吐き、思い詰めたように俯(うつむ)く。
「そうとなれば、余は生涯、親を欺いたという汚名を背負わねばならぬ。下手をすれば、おやごろし……」
 晴信の言葉を、途中で信方が遮る。
「若、それは違いまするぞ!」
 傅役は俯いた嫡男の両肩を摑(つか)み、言葉を続ける。
「よくお聞きくだされ。これから、板垣が申し上げることを、しかと心にお留め置きくださりませ」
「ああ……」
「もしも、御屋形様がお話の途中で下馬なさり、御刀を抜かれるようなことがあれば、板垣だけをこの場に残し、若はすぐさま皆を連れて新府へお戻りくだされませ。決して御屋形様と争ってはなりませぬ」
「されど……」
「いいえ、そうしていただかねばなりませぬ。どうしても、御屋形様にご納得いただけない時は、この首を差し出し、わが一命をもって必ずや、ご説得申し上げまするゆえ」
「……板垣」
 顔を上げた晴信の両眼を、傅役はじっと見つめる。
「御屋形様がお怒りのままに御刀を抜かれるならば、話は別。どうしても血を流さねば事が収まらぬというのであれば、謀叛者の汚名をきるのは、それがし一人で充分にござりまする」
「それでは……」
「たとえ、謀叛者の汚名をきようとも、この身は甲斐一国のために御屋形様の御隠居はやむをえず、かかる方策が正しいと信じておりまする。わが決意には、一片の揺るぎもありませぬ。それゆえ、若。もしもの時には、後に残った一族の者どもの面倒だけは何卒よろしくお願いいたしまする」
 信方の双眸(そうぼう)には揺るぎない決心が宿っている。
 ――もしも、御屋形様が隠居を承諾なされなかった場合は、たった一人でご主君を討ち取りまする。その上で、主(あるじ)殺しの汚名を背負い、自刃いたすしかありますまい。新しく武田の惣領となられる晴信様には、一切の瑕疵(かし)を与えないで代替わりを成し遂げてみせまする。
 信方の眼は、無言のうちにそう語っていた。}
 その壮絶な覚悟が伝わり、晴信は微(かす)かに身震いする。何か途轍(とてつ)もなく重いものが両肩に乗ったような気がして、足下の大地を踏みしめ直す。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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