「最後は、脅しか、板垣……」 眼を細め、信方を睨(ね)めつけた。 そこに原昌俊が割って入る。 「これは御屋形様の御矜恃(ごきょうじ)にかかわる大事にござりまする。それをお受け取りになり、駿河へお戻りくださりませ。でなければ、この書状を皆に読み聞かせなければなりませぬ」 「おのれ、昌俊……。この駄馬めが! 言うに事欠き、うぬまで余を脅すつもりか」 「脅しではありませぬ。心底からのお願いにござりまする。御屋形様には気高き御惣領のまま御隠居いただきとうござりまする」 「黙れ、駄馬!」 鐙(あぶみ)を踏みならし、信虎が鞍から下りようとする。 「何卒、下馬なさらぬよう、お願い申し上げまする! 地に御足をつけますれば、御屋形様の御矜恃が泥にまみれ、駒を離せば駿河へ戻る足もなくなりますゆえ」 陣馬奉行にまで任じた重臣の断固たる制止に、主君は思わず歯嚙みした。 信方が差し出した書状には重大な事柄が書かれ、原昌俊もその内容に眼を通している。 それは晴信の最初の正室となった朝霧姫の死の真相である。侍女の立花はその詳細を記し、藤乃(ふじの)を通じて信方に託していた。 実は、まだ幼かった晴信が閨(ねや)へ通う前に、信虎は舅(しゅうと)の講話と称し、毎晩のように朝霧姫の処へ通っていたのである。最初は酌の仕方などを教えるだけだったが、やがて、其(そ)れが高じて閨で過ごすようになった。 侍女の立花には止める手立てもなく、そのうち朝霧姫の懐妊が発覚する。もちろん、流産ということもあったが、朝霧姫が亡くなったのには、そのような仄暗(ほのぐら)い事実があった。 もしも、この場で書状を明らかにすれば、信虎の威光どころか、人としての矜恃まで失うことになる。 もちろん、信虎にもそんな書状が公開されれば、家臣の信頼を一瞬にして失い、取り返しのつかないことになるとわかっていた。 この場が不穏な空気に包まれる中、突然、信方が地面に両膝をつき、深く平伏する。 「どうか、このまま……、血が流れぬまま、御隠居くださりませ。御屋形様、お願い申し上げまする」 「御屋形様、お願い申し上げまする」 居並ぶ重臣たちも次々と地面に平伏して叫んだ。 ついに、信繁も膝をついて平伏する。 それでも、ただ一人、晴信だけが奥歯を嚙みしめ、仁王立ちしたまま、父親の顔を見上げていた。 これまで、まともに目も合わすことができなかった長男が、瞬きもせず父の両眼を見据えている。 その視線を受け止め、信虎が小さく舌打ちする。 「……板垣、さようにくだらぬものを、いつまでも得意げに振りかざさず、こっちへ渡せ。さすれば、刃だけは収めてやる」 「承知いたしました」 信方は立ち上がり、主君の愛駒の前まで進み出る。 信虎は愛刀の切先(きっさき)を差し向け、信方はそこに両手で書状を突き刺す。 その一挙手一投足を、一同は息を詰めて見つめていた。 刀の先から書状を引きちぎった信虎は、それを懐深くに仕舞いこむ。 「さて、これでよぉく、わかったぞ。隠居などと躰(てい)のいい言葉を使うているが、これはうぬらの謀叛ということだな。ならば、これより駿河に戻って今川に兵を借り、余は三日のうちにここへ戻ってくる。その時、うぬらの覚悟がどれほどのものか、量ってやるゆえ、このまま雁首(がんくび)をならべておれ!」 信虎は刀を鞘(さや)に収めながら吐き捨てる。 それから次男に眼をやる。 「信繁、そなた、さようなところで何をしておる! こっちへ来ぬか!」 家臣たちと共に平伏している信繁に向かって怒鳴る。 その声につられるように、信繁は立ち上がって歩を進める。 しかし、それはたった一歩だけだった。 そして、仁王立ちした兄の脇にぴたりと寄り添う。