連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)22 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 そうしながら、これまで己の気概を膨らませていた熱が、軆の芯から抜けていくのを感じていた。そこに残ったのは安堵ではなく、名状しがたい虚脱だった。
 やがて、蹄(ひづめ)の音と馬影が消え、万沢の里は静寂に包まれた。
「板垣、後のことは頼めるか」
 晴信の問いに、信方が頷く。
「お任せくださりませ」
「すまぬ。信繁と一緒に幕内に戻りたい」
「承知いたしました」
「信繁、行こう」
 弟の肩を抱いたまま、晴信が歩き始める。
 それを警固するように、甘利虎泰も動こうとした。
「すまぬな、甘利。少し二人だけにしてくれぬか」
「あ、はい……。わかりました」
 甘利虎泰は立ち止まって頭を下げた。
 二人は無言で幔幕内へと入る。
 晴信は肩を落とした弟を床几に座らせた。
「信繁、よく頑張ってくれたな」
「あ、兄上……」
 それ以上は言葉にならなかった。
 信繁は兄に縋(すが)り、堰(せき)を切ったように哭き始める。
「……信繁」
 号泣する弟を抱きしめ、晴信はあられもなく泪を流し始めた。
 もう二人の感情を封殺するものは何もなかった。ただ、心が揺れるまま、哭き続ける。
 ――今日はもう遠慮せぬ。この泪が涸(か)れるまで、哭きたいだけ哭こう。そして、明日からまた、この泪を封じる。甲斐一国と武田一門の再建がなされるまで。
 そう思いながら、晴信は泪を拭かずにいた。
 二人の嗚咽は人知れず万沢の闇に溶けていった。
 それから三日の間、晴信は家臣たちと共に、この場所で父親を待ち続けた。
 しかし、今川勢を引き連れた信虎は、ついに現れなかった。
 代わりに側近の土屋昌遠らが駆けつけ、信虎が嫁いだ姉の処で隠居する決心をしたと告げた。
「……まさか、晴信様が御屋形様の御隠居を面訴なさるほど、大胆な行動に出られるとは、思いもしませなんだ」
 土屋昌遠は恨みがましい口調で言う。
「そなたらが保身だけを考えず、しっかりと父上の政を支えておれば、かようなことにはなっておらぬ」
 晴信は強い口調で言い渡した。
「……わ、われらは御屋形様に従い、駿府へ参りますが、残った武川衆は?」
「心配に及ばぬ。青木家に筆頭としてまとめてもらったゆえ、これまで通り仕えてもらう。ただし、飯田虎春と柳沢貞興ら数名は処払いだ。ああ、それとこたびの騒動の責任を取り、青木信種殿は隠居して倅の信立(のぶたて)殿に武川衆筆頭の座を譲り、駒井(こまい)信為(のぶため)殿も一緒に隠居し、親戚の駒井昌頼(まさより)に跡を任せるそうだ。家中は収まるところへ収まった。そなたらには最後まで側近として父上を支えてもらいたい。数日後に太原雪斎殿と岡部(おかべ)久綱(ひさつな)殿が新府を訪れる。その後は駿河で静かに暮らせよう」
 晴信は素っ気なく言い渡した。
 土屋昌遠らは返す言葉もなく、駿河へと引き返した。
 最も難しいと思われていた信虎の隠居は、かろうじて成立したのである。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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