そうしながら、これまで己の気概を膨らませていた熱が、軆の芯から抜けていくのを感じていた。そこに残ったのは安堵ではなく、名状しがたい虚脱だった。 やがて、蹄(ひづめ)の音と馬影が消え、万沢の里は静寂に包まれた。 「板垣、後のことは頼めるか」 晴信の問いに、信方が頷く。 「お任せくださりませ」 「すまぬ。信繁と一緒に幕内に戻りたい」 「承知いたしました」 「信繁、行こう」 弟の肩を抱いたまま、晴信が歩き始める。 それを警固するように、甘利虎泰も動こうとした。 「すまぬな、甘利。少し二人だけにしてくれぬか」 「あ、はい……。わかりました」 甘利虎泰は立ち止まって頭を下げた。 二人は無言で幔幕内へと入る。 晴信は肩を落とした弟を床几に座らせた。 「信繁、よく頑張ってくれたな」 「あ、兄上……」 それ以上は言葉にならなかった。 信繁は兄に縋(すが)り、堰(せき)を切ったように哭き始める。 「……信繁」 号泣する弟を抱きしめ、晴信はあられもなく泪を流し始めた。 もう二人の感情を封殺するものは何もなかった。ただ、心が揺れるまま、哭き続ける。 ――今日はもう遠慮せぬ。この泪が涸(か)れるまで、哭きたいだけ哭こう。そして、明日からまた、この泪を封じる。甲斐一国と武田一門の再建がなされるまで。 そう思いながら、晴信は泪を拭かずにいた。 二人の嗚咽は人知れず万沢の闇に溶けていった。 それから三日の間、晴信は家臣たちと共に、この場所で父親を待ち続けた。 しかし、今川勢を引き連れた信虎は、ついに現れなかった。 代わりに側近の土屋昌遠らが駆けつけ、信虎が嫁いだ姉の処で隠居する決心をしたと告げた。 「……まさか、晴信様が御屋形様の御隠居を面訴なさるほど、大胆な行動に出られるとは、思いもしませなんだ」 土屋昌遠は恨みがましい口調で言う。 「そなたらが保身だけを考えず、しっかりと父上の政を支えておれば、かようなことにはなっておらぬ」 晴信は強い口調で言い渡した。 「……わ、われらは御屋形様に従い、駿府へ参りますが、残った武川衆は?」 「心配に及ばぬ。青木家に筆頭としてまとめてもらったゆえ、これまで通り仕えてもらう。ただし、飯田虎春と柳沢貞興ら数名は処払いだ。ああ、それとこたびの騒動の責任を取り、青木信種殿は隠居して倅の信立(のぶたて)殿に武川衆筆頭の座を譲り、駒井(こまい)信為(のぶため)殿も一緒に隠居し、親戚の駒井昌頼(まさより)に跡を任せるそうだ。家中は収まるところへ収まった。そなたらには最後まで側近として父上を支えてもらいたい。数日後に太原雪斎殿と岡部(おかべ)久綱(ひさつな)殿が新府を訪れる。その後は駿河で静かに暮らせよう」 晴信は素っ気なく言い渡した。 土屋昌遠らは返す言葉もなく、駿河へと引き返した。 最も難しいと思われていた信虎の隠居は、かろうじて成立したのである。