第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)9
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
晴信は正座し、眼を瞑(つぶ)ったまま答えた。
「御覚悟は、よろしいか?」
「はい、お願いいたしまする」
晴信の髷を持ち、岐秀元伯は何の外連(けれん)もなく、あっさりと根元を切る。
ばさりと残髪が落ち、それを隠侍が切り、丁寧に剃(そ)り上げた。
剃髪した晴信には直綴(じきとつ)という法衣が授けられ、着替えが済むと大導師の前に正座し、安名(あんみょう)の儀が始まる。
安名の儀とは、新たに受戒した者に対し、法号を授ける儀式だった。
「武田晴信殿、そなたに法号を授けまする」
大導師が重々しい声で言い渡す。
「号、徳栄軒(とくえいけん)。法名、信玄(しんげん)」
岐秀元伯から授かった道号の「玄」は、唐代の大師である臨済義玄(ぎげん)や、臨済宗妙心寺(みょうしんじ)派の開山である関山(かいざん)慧玄(えげん)に通ずる徳の高い一字である。
晴信は齢(よわい)三十八にして心気を改め、この日から武田徳栄軒信玄と名乗ることになった。
さらに大導師が授菩薩戒法を行う。懺悔(ざんげ)、三帰戒(さんきかい)、三聚浄戒(さんじゅじょうかい)、十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)、血脈授与(けちみゃくじゅよ)、回向(えこう)、処世界梵(しょせかいぼん)の菩薩戒が授けられる。
禅堂に会した者たちで普同三拝(ふどうさんぱい)が行われ、得度式は無事に終わり、散堂となった。
信玄は師家の居室である隠寮(いんりょう)に招かれる。
「髪をおろされた気分はいかがか?」
岐秀元伯が柔和な笑みを浮かべながら訊く。
「……まだ何とも実感が湧きませぬ」
「新しき名ともども、これから徐々に慣れてゆけばよい」
「はい。御師様、素晴らしき名を有り難うござりまする」
「本日は、問答無用。ここで少し坐禅を組まれてはいかがか」
「わかりました」
信玄は久しぶりに師家の前で坐禅を組む。
岐秀元伯は香炉に一本の線香を立ててから、静かに室を退出する。
禅堂では線香一本が燃え尽きる四半刻(三十分)を「一炷(いっしゅ)」と呼び、坐禅を組む時間の目安としていた。
――ようやく、ここまで辿(たど)りついた。信濃制覇も、あと一息だ。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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