よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)9

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 香が薫る中、信玄の心は平らかになり、様々な想いが浮かんでくる。
 ――武田家は源義光(みなもとのよしみつ)様を始祖とする甲斐源氏の宗家であり、清和(せいわ)源氏の中でも名門と称されて甲斐守護職を務めてきたが、狭隘(きょうあい)な盆地にある一国は決して豊かとは言えず、常に困窮を味わってきた。されど今、信濃の大半を制し、これまで敵対してきた今川家や北条家と同盟を結ぶことで、領国の安定を図ることができた。あとは善光寺平を掌中に収め、信濃守護職の補任を布告すればよい。たとえ栄誉が与えられるとしても、それまでは上洛など余計なことは考えまい。
 微(かす)かな音を立て、線香一本が燃え尽きようとしていた。
 ――逸る必要はない。揺るがぬ心を保つのだ。そのための入道でもある。
 信玄は脳裡(のうり)に細波(ささらなみ)ひとつない諏訪湖(すわこ)の水面を思い浮かべようとする。それでも様々な思案が空を流れる雲のように脳裡をよぎっていく。
 いつのまにか正面に岐秀元伯が立っており、右肩に警策(けいさく)が置かれる。警覚策励の合図だった。
 それを悟った信玄は眼を閉じたまま、静かに合掌する。
 岐秀禅師も合掌してから、平棒で数度にわたって信玄の肩を打つ。警覚策励とは仕置ではなく、文殊菩薩の掌による励ましという意味があった。
 二人は互いに合掌し、信玄は何事もなかったように坐禅に戻る。
 やがて、線香が燃え尽き、最後の煙を上げた。
 それから、しばらくして信玄は眼を開けて合掌する。
「……いただきました」
「文殊菩薩の御加護がありますように」
 岐秀元伯も合掌しながら答える。
 得度の儀は滞りなく終わった。
 そして、武田徳栄軒信玄にならい、薙髪した家臣は原虎胤、小畠虎盛、山本菅助、真田幸綱、長坂虎房、駒井政武らとなった。
 原虎胤は「清岩(せいがん)」、小畠虎盛は「日意(にちい)」、山本菅助が「道鬼斎(どうきさい)」、真田幸綱は「一徳斎(いっとくさい)」の道号をもらい、これを機に幸隆(ゆきたか)と改名する。それよりも若い長坂(ながさか)虎房(とらふさ)は「釣閑斎光堅(ちょうかんさいみつかた)」の道号をもらい、駒井政武は「高白斎(こうはくさい)」の道号を授けてもらい、昌頼(まさより)と改名した。
 それから二ヵ月(ふたつき)ほど経った四月半ばに、越後で諜知(ちょうち)を行っていた跡部信秋が一報を持ち帰る。
「御屋形様、長尾景虎が上洛のために春日山(かすがやま)城を出立いたしました」
「まことか!」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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