第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)4
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
――向こうも眼を凝らし、こちらを見ているのであろう。……いや、おそらく青柳城を出立した時から、越後の忍(しのび)、軒猿(けんえん)がわれらの同行を窺(うかが)っているに違いない。
しかし、川中島は不気味なほどの静けさに包まれ、美装の大軍勢が粛々(しゅくしゅく)と進む跫音(あしおと)だけが響く。
武田勢の本隊が到着したことは、越後勢も承知しているはずだが、妻女山に目立った動きはない。千曲川から妻女山の麓への渡しとなる屋代(やしろ)と雨宮(あめのみや)にも、敵兵らしき姿は見あたらなかった。
どうやら越後勢は息をひそめ、武田勢の行軍を見つめているようだ。
その沈黙がさらに川中島の空気を重くしていた。
武田勢の本隊は篠ノ井追分からさらに北へと進み、布施五明(ふせごみょう)という里で行軍を止める。
武田の先陣である信繁(のぶしげ)の一隊、そして、飯富(おぶ)虎昌(とらまさ)の率いる赤備(あかぞなえ)衆が辺りに展開し、越後勢の攻撃に備えた。
先陣の後には幾重もの備えが置かれ、その中央に信玄の旗本がある。
山本(やまもと)菅助(かんすけ)の率いる足軽隊が茶臼山(ちゃうすやま)へ登り始め、陣馬奉行の原(はら)昌胤(まさたね)がそれに続く。荷駄を運ぶ手明(てあき)隊を率い、山頂に本陣を設(しつら)えるためである。
武田勢に緊張感が漲(みなぎ)り、総軍が妻女山に陣取る敵の動向に神経を集中していた。
布施五明への到着から二刻(四時間)ほどが経った頃、山道が切り開かれ、要所要所に陣が設えられ、守備の兵が配置される。午後遅くには山頂に陣幕が張られ、陣所の帟(ひらはり)が設営された。
山本菅助と陣馬奉行の原昌胤の見事な手際だった。
信玄は旗本衆を率いて茶臼山の登攀(とうはん)を開始し、山頂へ向かう。
その頃から茶臼山の背後に陽が沈み始め、暮方の斜光が川中島を淡い茜(あかね)色に染めた。
本陣に入った信玄が正面の妻女山を見据える。
――われらが二万余の大軍で川中島に到着したにもかかわらず、敵は何事もなかったように動かず、この山へ登ったことがわかっていながら、騒がずにこちらを眺めているような気配だ。まだ、ここまでは景虎(かげとら)の想定の内ということか……。
腕組みをしながら、信玄が微(かす)かに眉をひそめる。
敵方の奇妙な戦(いくさ)仕立てに苛立(いらだ)ちを感じ始めていた。
その背後から、跡部(あとべ)信秋(のぶあき)が声をかける。
「御屋形(おやかた)様、失礼いたしまする」
「おお、伊賀守(いがのかみ)か」
「透破(すっぱ)たちの働きにより、やっと敵陣の全容が摑(つか)めました」
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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