よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)4

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「兵粮攻(ひょうろうぜ)めでも行うと?」
「いや、そこまでの長期戦をお考えになっているとは思えぬのだ。少し軍勢を動かし、相手を煽(あお)って反応を確かめてみようという魂胆であろうか。あるいは、余りに景虎が泰然自若としておるので、少し御屋形様が焦(じ)れておるのかもしれぬな」
「この戦、最初から景虎の取っている態度が面妖すぎまする」
「面妖な布陣から始まり、最後も面妖なる結末を迎える戦かもしれぬな……」
 二人は先行きの見えぬ戦を思い、しばし黙り込む。
 昌信が言ったように、止水の如き時が続けば続くほど、穏やかに見える水面下で捻り合いが続き、戦いの規模が刻々と膨らんでいるのかもしれない。
 しかし、それが不気味な沈黙を続ける景虎の狙いかどうかも判然としなかった。
 ――敵の詐術に取り憑(つ)かれぬよう、どこかでこちらから大胆に局面を変えねばならぬ。
 菅助はこれまで味わったことのない危機感を抱いていた。
 それは犀川を挟んで越後勢と正面から対峙した二度目の川中島の戦いの時に感じたのとも違う、どこか喉が締めつけられるようなひりついた感覚だった。
「昌信殿、越後勢は妻女山の裏にある隠し道のことに気づいていると思うか?」
 突然、菅助が放った問いに、昌信は首を傾げる。
「裏にある隠し道とは、妻女山の頂きから天城、鞍骨、大嵐(おおあらし)、戸神(とかみ)などの尾根を登っていく山道のことを申されておるのでありましょうか」
「さようじゃ」
「越後の者があの道を熟知しておるとは思えませぬ。だいたい、あの道筋を知っているならば、砥石(といし)城から地蔵(じぞう)峠を抜けて走った使番が、無事にこの城へ着くわけがありませぬ。戸神山から唐木堂(とうぼくどう)の脇を下った敵方の待ち伏せに遭い、今頃はあの世に行っておりましょう」
「それはそうなのだが……」
「道鬼斎殿は何を心配しておられるのか?」
「いやいや、景虎があの隠し道を知らずに妻女山へ布陣したのならば、あまりに唐突すぎると思ったのじゃ。儂はこの城を普請した時にすべての山へ分け入り、獣道までを確かめた上で、砦になりそうな建家を破却して回った。その結果、松代西条(さいじょう)にある清水寺(せいすいじ)と西楽寺(さいらくじ)の辺りから大嵐山と鞍骨山を繋(つな)ぐ峰へ登る細い道も三つほど見つけている。それを知る者ならば、海津城の退路を断ちきって攻めるために、妻女山へ布陣するかもしれぬ。もしかすると出陣前に、誰かが隠し道のことを景虎に入れ智慧したのかもしれぬ」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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