第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)4
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「あの時、初めて犀川を挟んで越後勢の先陣と向き合った。この身を含め、われらの先陣にいた誰もが、越後勢は易々(やすやす)とは河を渡ってこれまいとたかを括(くく)っていたのだ。兄上の描いた絵図通りに戦が進んでおり、どこかに相手を侮る気持ちがあったのやもしれぬ。あるいは、兵法の常道を逸脱し、敵の眼前で渡河する愚昧者(おろかもの)などおるまいと気を緩めていたのかもしれぬ」
信繁が言ったように、兵法の常道からすれば、大きな川を挟んで対陣した場合、先に渡河しようとした方が不利を被りやすいとされている。
『敵の半渡河に乗じて攻めよ』
それが孫子(そんし)の説く戦法だった。
つまり、ふたつの大軍が川を挟んで対峙(たいじ)すれば睨(にら)み合いが続き、それぞれの陣営は相手を挑発し、何とか先に動かそうとする。
それでも、相手の眼前で渡河する不利を被りたくないため、双方が動かぬままに戦況が膠着(こうちゃく)してしまうのが常だった。
「されど、越後の先陣大将は違った。兵法の常道をまったく無視するが如く、平然と渡河を敢行してきたのだ。まったく、暴虎馮河(ぼうこひょうが)の振舞いとは、あのことだ。いまでも時々、あの日の光景を夢に見ることがある」
信繁は睫毛(まつげ)を伏せながら苦笑した。
義信はじっとその横顔を見つめる。
あの日の光景とは、信繁の眼を疑うような越後勢の進軍だった。
夏日が降り注ぐ中で、武田勢の油断を突くように、いきなり越後の先陣が気勢を上げながら犀川を渡り始めたのである。
夏枯れで犀川の水位が低かったこともあるが、その疾(はや)さは尋常ではなく、信繁は度肝を抜かれた。
「正直に申せば、迫り来る敵影と旗印を見た刹那、『撤退』の二文字が脳裡(のうり)を掠(かす)めた。それほど鬼気迫る疾さで、越後の先陣が一気に浅瀬を越えてきたのだ。されど、この身も咄嗟(とっさ)に肚(はら)を括るしかなかった。河を渡らせてしまえば、この戦、負ける。咄嗟に、そう思うたからだ」
その時、信繁は愛駒に飛び乗り、先陣に迎撃を下知した。
半渡河での乱戦に持ち込めば、まだ相手を押し留(とど)めることができそうだと思ったからである。
もしも、そこで退きながら相手を迎え撃とうとしたならば、勢いに乗る敵方に蹴散らされ、さらに後方から越後勢の本隊が押し寄せる可能性が高かった。
そうなれば、敵の渡河を予想していなかった自軍の本陣まで一気に貫かれていたかもしれない。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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