第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)4
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
関東管領(かんれい)となった上杉政虎は、坂東での北条(ほうじょう)攻めで十万余の大軍を率いていた。
それだけの与力が坂東にいるならば、西上野(にしこうずけ)の辺りから大援軍が押し寄せるというのもあながち絵空事ではないかもしれない。本当ならば、実に恐ろしい事態となる。
さらに『坂東からの援軍を待っているのではなく、越後勢が囮(おとり)となって武田勢を川中島に釘付けにしている間に、坂東勢が佐久方面へ進軍し、武田の城を攻め落とそうとしているのではないか』というような話までが、兵たちの間でまことしやかに囁(ささや)かれる。
敵の狙いが読めず、明らかに武田の陣中が疑心暗鬼にかられ始めていた。
対峙する両軍が息を詰めて睨み合う中、八月二十四日の着陣からすでに四日が過ぎた。
その間も武田の陣営では幾度か軍(いくさ)評定が行われている。
軍議の主題は越後勢の布陣の意図をどう読むかに絞られ、重臣たちからは様々な見解が示されたが、どれも敵方の思惑を完全に喝破するまでには至らない。
上杉政虎の狙いが読めそうで読めないことに、評定の場に苛立ちが漂い始めている。
時を経るごとに、重臣たちの苛立ちが微かな焦燥(しょうそう)へと変わってゆく様が、はっきりと感じ取れた。
八月二十八日の日没になり、信玄は敵陣から眼を離し、夜空を見上げる。
日付が変われば、明日は小の八月が終わる晦(つごもり)だった。
晦とは月隠(つきごも)りのことを意味し、夜空の月が消え入るほど痩せ細る「みそか」のことを示している。
小の月ならば二十九日、大の月ならば三十日が晦日(みそか)となり、翌日がほとんど月の見えない新月の朔日(ついたち)となる。
そして、二日になれば、また上弦の繊月(せんげつ)が空に戻ってくるのである。
古来から人は毎夜の月読(つくよみ)をしながら暦を数えてきており、手元に暦書がなくとも月齢さえ知っていれば、その日が何日にあたるのかをほぼ正確に知ることができた。
消え入りそうに細った月を見つめ、信玄が大きく息を吐く。
――わが陣に蔓延(まんえん)しているのは、すでに苛立ちを伴った焦燥ではなく、真綿で首を締められるような不安やもしれぬな……。
そんな思いを振り払うように鉄扇で空を切り裂く。
その背後から、若々しい声が響いてくる。
「父上、失礼いたしまする」
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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