第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)4
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
敵方の陣を確かめた信玄は、改めて己の選んだ策が正しかったことを確信した。
西の茶臼山と東の妻女山の間には二里(約八㌔)ほどの距離がある。
しかし、予想していたよりも敵陣が近くに感じられ、まさに指呼の間としか思えない。
――景虎よ、余が現れるまで、じたばたせずに待ち続けた図太さだけは褒めてとらす。さて、うぬは、われらの布陣をいかように読むか?……読み違えれば、こたびは死ぬるぞ。武田に無用な戦いを仕掛けた報いでな。
信玄は腰元から鉄扇を抜き、ぴしりと掌(たなごころ)に打ちつける。
それから、踵を返し、幔幕(まんまく)内へ戻った。
同じ頃、茶臼山の中腹にある陣で、朱絲緘(しゅいとおどし)の当世具足(とうせいぐそく)に身を包んだ飯富虎昌が憮然(ぶぜん)とした面持ちで敵陣を見つめていた。
先ほど跡部信秋から渡された敵の陣立図を確認し、五の手がある矢代生萱の方角を睨(ね)めつける。丸に「上」の一字を染め抜いた旗幟こそ見えなかったが、そこには仇敵(きゅうてき)の村上義清がいるはずだった。
――村上……。敬愛する同朋(どうぼう)、板垣(いたがき)信方(のぶかた)と甘利(あまり)虎泰(とらやす)が身罷(みまか)り、なにゆえ、うぬだけがのうのうと生きておるのか。それがしはまだ上田原での仇怨(きゅうえん)を忘れてはおらぬ。こたびの戦、何をおいても、うぬだけは必ず首にしてくれるわ。覚悟しておけ。
虎昌は歯嚙(はが)みしながら仁王立ちしていた。
村上の旗幟が川中島に翻っているというだけで、胃の腑(ふ)からふつふつと怒りが沸き上がってくる。
その時、虎昌の背後から胸の裡(うち)を見透かすような声が聞こえてきた。
「何とも、歯痒(はがゆ)いのう、兵部(ひょうぶ)」
幾筋もの刀瘡(とうそう)が刻まれた面構えに、飄々(ひょうひょう)とした笑みを浮かべた室住(もろずみ)虎光(とらみつ)が立っている。
「……豊後(ぶんご)殿か。背後を取られた気配を、微塵(みじん)も感じなかったわ。いつから、そこにおられた?」
「今し方だ。されど、遠目からでも、そなたの背中から怒気が立ち上っておる様がはっきりと見えたわい。湯気の如くな。御屋形様の下命とはいえ、村上の陣を黙って眺めていなければならぬとは、何とも間尺に合わぬのう」
室住虎光は歯を剥きだして憎々しげに笑う。
この老将は先代の武田信虎(のぶとら)と信玄の二代にわたって仕える最古参の武辺者(ぶへんもの)であり、上田原で討死した板垣信方と甘利虎泰の上輩にあたる。
つまり、今年で齢(よわい)五十八となる飯富虎昌よりも遥(はる)かに上輩であり、今年で齢六十七を超えながら未(いま)だに現役であった。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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