第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)4
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
菅助は苦笑しながら黒い眼帯をそっと押さえる。
この漢の失った左眼は寸刻先の闇、つまり、先に待ち受けている危機を見ることができると言われていた。その予感で何度も修羅場をくぐり抜けている。
「昌信殿、わしは心底から御屋形様に感謝しておる。かような老いぼれを疎(うと)まず、まだ戦働きをさせてくださるのだから。御屋形様は『もう隠居して、ゆっくりと余生を過ごせ』と申される。されど、この身は戦場に立っておらねば、ただの抜け殻にすぎぬ。武田が戦っている時に、ぼんやりと縁側に座って何をせよというのだ。死に場所くらいは、己で決めたい。それを受け入れていただき、渋々ながらでも老骨の我儘(わがまま)を聞いてくださる御屋形様には、まことに感謝しておる」
「道鬼斎殿……」
「あと幾度、戦場に立てるかわからぬゆえ、残りの命を惜しんで、あの世で後悔したくないのだ」
「え、縁起でもないことを申されまするな」
「儂はこれしきの合戦では死なぬ。摩利支天様の御加護もあるしの。ただ残り少ない一戦一戦において、己の学んできた兵法のすべてを使って戦いに臨みたい。軆(からだ)を張ってそれを伝えておきたい漢がおるからだ。昌信殿、それが、そなたじゃ」
菅助は若き城将の肩に手を置いて微笑む。
「その御言葉、しかと肝に銘じておきまする」
「掛値なしに申せば、長尾景虎という漢は稀(まれ)にみる戦巧者であろう。そして、越後勢は強い。わしは一度目と二度目の川中島の戦いで、それをはっきりと思い知らされた。何よりも、脇目も振らずに、相手の懐深くまで踏み込んでくる景虎の心胆は恐るべきものだ。されど、それに勝ってこその武田ではないか」
老将の隻眼を見つめ、昌信は深々と頷く。
しばし、二人はこの一戦にかける並々ならぬ決意を嚙みしめた。
「では、急ぎ本陣へ戻り、城とそなたの様子を御屋形様へご報告しておく」
山本菅助が立ち上がる。
夜更け過ぎの闇に紛れ、黒ずくめの騎馬隊は海津城から茶臼山に戻った。
そして、夜が明けても、妻女山の越後勢は何の動きも見せなかった。
不気味な沈黙だけが川中島の一帯を包んでいる。
信玄も相手の真意を推し量るように斥候を放つだけで自軍を動かそうとはしない。
そのうち、武田の陣中に奇妙な風聞が流れ始める。
『越後勢がこの川中島に居座って動かぬのは、坂東(ばんどう)勢からの援軍を待っているからではないのか』
そんな噂(うわさ)だった。
それはまったくあり得ない話でもなかった。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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