よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)4

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 ――ここで止めなければ危ない!
 それが武田の先陣を担ってきた大将の直感だった。
 案の定、越後勢は先陣だけでなく、後続の部隊も続き、一気呵成(かせい)に攻め懸かってくる。武田勢の先陣も犀川の中へ突っ込み、そこからは押しつ押されつの乱戦となった。
 敵味方が入り乱れて戦う中、信繁は敵の先頭にひときわ美装の侍大将を見つける。
 その者は黒鹿毛(くろかげ)の馬に跨(またが)り、黒絲緘(くろいとおどし)の具足に身を固め、胴には金泥(きんでい)の蕪菁紋(かぶらもん)が描かれていた。黒装束の猪武者(ししむしゃ)が、信繁の朱絲緘の胴に光る武田菱の紋を見た途端、猛然と突進してくる。
 薙(な)ぎ払うように繰り出す相手の黒槍(くろやり)を、信繁は朱塗りの二間(にけん)槍で真っ向から受け止める。
 その衝撃が凄(すさ)まじかった。
「最初の一撃を受けた時の痺(しび)れが、まだ、この手に残っているような気がするほどだ」
 信繁は右手を開いて見せる。
 微かに震える掌(たなごころ)を見て、義信は眼を見開き、固唾(かたず)を呑む。
 真っ向から敵を受け止めた信繁は、その剛の者と数合(すうごう)を互角に打ち合う。勝負が佳境に差し掛かった頃、敵味方の足軽が周りを囲み、双方から横槍が入った。
 それをかわした信繁は、敵の足軽を突き倒し、その場から離れる。
 黒装束の武者は愛駒の動きを止め、己の方を睨め付けていた。
 その髭面(ひげづら)が実に悔しそうな表情だった。
「おそらく、あれが越後の先陣大将、柿崎景家であったのだろう。景虎が『越後七郡に手の合う者あるまじ』と称賛したほどの剛の者らしい」
「柿崎……景家……」
 義信がその名を反芻(はんすう)する。
「さようだ。源平(げんぺい)争覇の世であったならば、互いに名乗りを上げてから一騎打ちという優雅な運びになったやもしれぬ。されど、徒歩(かち)による戦いが主となった当世の戦では、首級(しるし)を挙げるまで相手の名がわからぬ。それでも、あれが柿崎景家だと確信している。わが身の奥に残っている手応えが、さように語りかけてくるからだ。あの時、正面から打ち合っておいてよかった。もしも、背を見せていれば、生涯、あの者から逃げ続けることになったかもしれぬからな」
 信繁の奮闘もあり、武田勢は犀川で越後勢の進軍を食い止めた。
 結局、二度目の川中島合戦は、この激突をもって終わった。その後三ヶ月にも及んで両軍の滞陣は続いたが、二度目の干戈(かんか)を交えることはなかった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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