第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)4
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
中腹の旗本から登ってきた義信だった。
「おお、義信か」
「先陣及び旗本の中備(なかぞなえ)、ともに異常ありませぬ」
「さようか」
信玄はわざと緩慢な動作で伸びをする。
「いかぬな。かようなことを続けていると、心気が鈍(なま)ってしまう。この山から敵陣を眺めるのも飽(あ)いたゆえ、そろそろ兵でも動かしてみるか」
まるで鷹野(たかの)へでも出るが如き口振りで飄々と言い放つ。
すかさず義信が訊く。
「父上、兵を動かすとはいったい、いかように?」
「われらがここへ登ったと見て、景虎の奴めが渡しでも押さえに出るかと思いきや、遊山三昧で何もせぬ。ならば、こちらから二つの渡しを押さえてみるまでよ」
信玄はこともなげに答える。
「では、兵粮攻めの構えを取りまするか?」
義信の問いに、信玄はゆっくりと首を振る。
「いや、兵粮攻めには持ち込まぬ。ここで戦を長引かせるのは得策ではなかろう。長引かせれば戦の手仕舞いが難しくなることは、二度目の対陣を通して皆が存じておる。寝たふりをする敵に重圧をかけるのならば、兵粮攻めに見せかけて渡しを塞ぐのが最も効きそうだ。されど、そのままの策は続けぬ」
「父上、二度目の戦いの如く、敵が渡河を仕掛けてきました時は、いかがいたしまするか?」
義信が冷静な声で訊く。
「向こうが仕掛けてくるのならば、相手をしてやらねばなるまい。されど、渡しを封じられたぐらいで慌てて動いてくるのならば、あの布陣を続けている意味が見出せぬ。さように簡単な相手ではあるまい。ゆえに、景虎は何か別の手を打ってくるような気がいたす。あるいは、それでも何もせぬか……。いずれにせよ、応手を確かめるために兵を動かすのだ」
それから信玄は己の描いた軍略用兵術を語り始める。
――父上が始めてそれがしだけに策を聞かせてくださった……。
義信は頰を紅潮させ、真剣な面持ちで聞き入った。
「明日の朝、評定を開く。義信、皆に触れを廻(まわ)してくれ」
「承知いたしました!」
義信は一礼し、踵を返した。
八月二十九日の月隠りを機に、信玄は自ら局面を動かそうとしていた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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