よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)2

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「構わぬ。そなたの好きにいたせ、小太郎。余もそのほうがしっくりとくる」
「有り難し」
「されど、氏政(うじまさ)や他の者がいる時は頼むぞ」
「承知! その辺りは、心得ておりまする、大御屋形様」
 小太郎が口唇の左端を吊り上げて笑う。 
「妖しき奴めが。……ところで、越後に植え付けた間者から、事前に知らせはなかったのか?」
「ありませなんだ。こたびの出兵もずいぶんと急なことであり、知らせがあったのは越後の者どもが沼田へ向かった後にござりました。少し気になることがありますゆえ、急ぎ調べ上げてまいりまする」
「頼んだ」
 氏康が頷(うなず)くと同時に、風魔小太郎は姿を消していた。
 この漢が率いる風魔党は、武田家の三ッ者(みつもの)と同じく優れた忍びの集団であり、坂東を中心に広く諜知の網を張っている。河越城夜戦の時も、小太郎と風魔党の活躍で危機を脱した経緯があり、北条勢の誰もが全幅の信頼を寄せる忍びの頭領だった。
 北条家の本拠地である小田原は重い空気に包まれたまま新年が過ぎてゆき、やがて長尾景虎と越後勢の新たな動きにより、その思惑が明らかになってきた。
「父上、大変なことになりました! 古河公方(こがくぼう)殿から急報が届きまして、関宿(せきやど)城が越後勢に落とされたようにござりまする!」
 嫡男の北条氏政が血相を変えてやって来る。
 古河公方とは、氏康が擁立した足利(あしかが)晴氏(はるうじ)の次男、足利義氏(よしうじ)のことであり、坂東においてはいわゆる旧来の鎌倉(かまくら)公方に匹敵する存在だった。
「義氏殿は無事か?」
「はい。関宿城を脱出した後、最も近場にいる千葉(ちば)胤富(たねとみ)殿を頼って森山(もりやま)城へ落ち延びたようにござりまする」
 関宿城は下総(しもうさ)の国府があった葛飾(かつしか)郡にあり、旧来の古河城に代わって足利義氏の御所として氏康が確保した城である。
 その本拠地が越後勢によって急襲され、古河公方の足利義氏は一族郎党を引き連れ、命からがら下総国香取(かとり)郡にある千葉胤富の森山城へと逃げたようだ。
 義氏の正室は氏康の娘、浄光院(じょうこういん)であり、二人の子供たちもいた。 
「それだけでなく、越後勢の侵攻に合わせ、われらの動きを静観していた下総の者どもが長尾景虎に降(くだ)り、同調したようにござりまする」
「簗田(やなだ)晴助(はるすけ)や小金(こがね)の高城(たかぎ)胤吉(たねよし)あたりの者どもか?」
「さようにござりまする。さらに恭順の意を示していた武蔵や下野の者どもまでが奇妙な動きをし始めたようで……」
「景虎はこたびの出陣に上杉憲政を伴ってきたというが、おそらく古河公方と関東管領職の座を巡り、新たな謀略を仕掛けるつもりであろう。その辺りのことは小太郎が詳しく調べており、間もなく報告にくる。そなたも一緒に話を聞いておけ」
「承知いたしました」
「長尾景虎、どこまでも余計なところに首を突っ込みたがる慮外者(りょがいもの)めが」
 氏康が忌々しそうに吐き捨てた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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