よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)2

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 続けて、直江景綱が眉をひそめながら訊く。
「御屋形様、ならば、妻女山に布陣しても海津城は捨て置くということにござりまするか?」
「ほう、景綱。やっと口を開く気になったか。待ちくたびれたぞ。海津城を捨て置くのは下策だ、とでも言いたげな口振りであるな」
 政虎は面白そうに家宰の顔を見る。
「下策だとまでは、申しませぬ。ただし、懼(おそ)れながら申し上げますれば、かかる策は難渋すぎて、御屋形様の真意が誰にもわかっておりませぬ。市村の渡しで犀川を渡り、敵の鼻面をかすめて妻女山へ布陣することもよかろうと存じまする。さらに、海津城を捨て置けと申されるならば、喜んで捨て置きましょう。されど、その後に、いったい何が起こるのでありましょうや?」
 景綱は真剣な眼差しで身を乗り出す。
「御屋形様にしか見えておらぬ先々の軍略をお聞きしなければ、ここにおりまする将は誰一人として、この策を説いて兵たちを動かすことができませぬ」
 通常は政虎の軍略を咀嚼(そしゃく)するだけの軍評定が、いつのまにか微妙な熱を帯びていた。
 まるで、皆が武神の術にかかり、思いの丈を吐露しはじめたかのようだった。
「ならば、申しておくか。景綱、そなたは二度目の川中島の戦いを覚えておるか?」
 総大将の問いかけに、家宰は苦い表情で頷く。
「余はあのような戦を二度とするつもりはない。こたびの戦は、晴信と雌雄を決するつもりである。余が直々にあ奴の首を討ち取ってでもだ」
 政虎は半眼の相で言い放った。
 将たちは、思わず絶句する。
 それから、息を詰めて総大将の次の言葉を待った。
「確かに海津城を攻め、それから甲斐の軍勢を待つのが戦の常道ではあろう。されど、城を落とされても、晴信はまともに懸かっては来ぬ。われらがいる間は対岸でじっと息をこらし、われらが越後に戻ってから、またぞろ動き出す。この九年の間、信濃の戦は、その繰り返しであった。余にはそれが我慢ならぬ。あ奴は甲斐の虎などとおだてられ、その気になっているが、内実は臆病な狸(たぬき)でしかない。本物の猛獣が見えている間は、決して巣穴から出て来られぬ。それゆえ、こたびは余が愚かな獣の振りをして敵地深くの山へと登ってみせようというのだ。晴信はそれが何のことやらわからず、わからぬがゆえに、自ら川中島へ駆けつけるであろう。つまり、妻女山への布陣は、必ずや、あ奴を誘(おび)き出す布石となる。そこで晴信が目の当たりにするのは、絶地へと登ってしまった愚かな余の姿であろう。されど、すぐに己が本物の龍のいる穴を覗(のぞ)いてしまった狸であることに気づくであろうて。こたびの戦は、必ず、さような戦いとなる」
 政虎は虚空を見つめながら、思いの外、長く語る。
 総大将が己の一身を餌にして、本気で相手の首を狙いにいく。
 その揺るぎない決意が、やっと家臣たちへも伝わる。
「ただし、これは乾坤一擲(けんこんいってき)の戦いである。機を見誤れば、こちらが全滅することもあろう。その覚悟ができる者だけ、一緒に妻女山へ登るがよい」
 政虎は澄み切った瞳で一同を見渡す。
 もう、誰も異を唱えなかった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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