第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)2
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
そこへ越後勢の長老である宇佐美(うさみ)定満(さだみつ)がやって来る。
皺(しわ)だらけの顔に苦笑を浮かべた老将が、柿崎景家に話しかけた。
「のう、景家。こたびの出陣は、やはり信濃であるか?」
あまりにとぼけた問いに、柿崎景家は思わず顔をしかめる。
「お戯れは、およしくださりませ。それは駿河守殿が一番ご存知のはずでありましょう」
「ところが、わかっておらぬのよ。だから、そなたに訊いておる。御屋形様の軍略を家中で最も良く理解しておる御主(おぬし)にしか、かようなことは訊けまいて」
「わが武略は御屋形様の軍略あってのものにござりまする。何も聞いておりませぬ以上、その問いにお答えする言葉を持ちませぬ」
「それは逆であろう。御屋形様の軍略は、御主の武辺(ぶへん)あってこそのものなだ。越後の者ならば皆、さように思うておるわ。いくら御屋形様の策が優れていようとも、それをいとも簡単に解し、先陣で担える柿崎景家がおらねば、所詮、軍略など絵に描いた餅よ。それゆえ、恥を忍んで御主に訊ねておるのだ」
宇佐美定満は真顔になって先陣大将を見つめる。
「……さように申されましても」
柿崎景家が俯(うつむ)きながら答える。
「……割ヶ岳城を武田に落とされている以上、信濃への出陣としか思えませぬ」
「であろうな。されど、割ヶ岳城を落とされた報復で武田の海津城とやらを潰しにかかるのならば、今でなくともよいではないか。坂東への長い出兵の直後なのだ。少し皆を休ませてからでもよかろう。何も急ぐ必要はない。今年の収穫を待ち、来春になってからでも、よいぐらいだ」
「……確かに、一理ありまする」
「それに、少々嫌な話を耳にした。京の公方殿から御屋形様へ、また無理な頼みがあったとか。そなたも知っておるであろう、景家」
「小笠原(おがさわら)のことにござりまするか?」
「さようだ。一度は御屋形様を頼っておきながら京へ逃げ、何が信濃守護への返り咲きじゃ。寝言も大概にせよ!」
宇佐美定満が吐き捨てる。
この老将が言ったように、武田家に信濃を追われた小笠原長時(ながとき)は当時の景虎を頼ったが、すぐに越後を出奔し、三好(みよし)長慶(ながよし)を頼って上洛した。
その後、長慶や伊勢(いせ)貞孝(さだたか)の仲立ちで足利義輝に拝謁し、元信濃守護として公方の知己を得る。
小笠原長時は義輝に泣きつき、側近の大舘(おおだち)晴光(はるみつ)が上杉政虎に「信濃復帰に助力を願いたい」と申し入れてきたのである。
それが小笠原長時の我儘(わがまま)であったとしても、公方の下命である限り、政虎は義理を果たすつもりだった。
宇佐美定満はそのことに腹を立てていた。
「景家、もしも信濃への出兵が割ヶ岳城の報復だけではなく、小笠原を復帰させるための助力なのだとしたならば、御屋形様は義将としての面目を保つために、少し無理をしすぎておるとは思わぬか?」
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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