よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)2

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 松山城を難なく手に入れた景虎は、いよいよ本格的な侵攻に向けて動き始めた。
 弥生朔日(やよいついたち/三月一日)、近衛前嗣の饗応(きょうおう)役だった直江(なおえ)景綱(かげつな)と一万の軍勢を護衛に付け、足利藤氏と古河城で合流するため厩橋城を送り出す。
 続けて越後勢の先陣を進発させた後、自らも松山城を出立し、総軍を率いて南下を始めた。
 その足で河越城に向かうと思いきや、二里(八`)ほど西側にある鎌倉街道の上道(かみつみち)を進む。
 途上、上道の鶴ヶ島(つるがしま)で旧領の奪回を望む坂東勢を切り離し、河越城へ向かわせる。
 景虎の本隊は何事もなかったように南下を続け、北条方の滝山城と津久井城を横目で睨みながら武蔵の府中へ入った。
 三月三日に越後勢の先陣が津久井郡当麻(たいま)に出張り、北条方の津久井城を牽制(けんせい)するように陣を張る。
 その間、景虎の本隊は行軍を続け、相模国分寺(さがみこくぶんじ/海老名〈えびな〉)付近で相模川を西へ渡り、三月八日には東海道の中(なか)郡中筋(なかすじ/大磯〈おおいそ〉)へと到着した。
 こうした状況が風魔党から細かく報告され、氏康は景虎の狙いを確信する。
 ――いくつかの軍勢を本隊から切り離したとはいえ、有に六万以上の兵は残っている。ならば、狙いはこの小田原城への総攻めであろう。景虎が寄せ集めの軍勢をどれだけ統率し、練度の高い攻撃ができるかによって籠城戦の様相が決まる。
 その読み通り、景虎の本隊は中郡中筋(大磯)で態勢を整え、総軍で東海道を西へ進み始める。
 三月八日、越後勢の先遣隊と北条方の遊軍となっていた大藤(だいとう)秀信(ひでのぶ)の足軽隊が中郡の大槻(おおつき/泰野〈はだの〉)にて干戈(かんか)を交える。
 相模田原(たはら)城の城主であり、中郡の郡代を務める大藤秀信が奮戦し、露払いに出た越後勢の先遣隊を撃退した。
 その後も、小田原城の北側にあたる足柄上(あしがらかみ)郡の曽我山(そがやま)や怒田山(ぬたやま)で小競り合いが起きる。それが三月も末に差しかかるころだった。
 そうした中、景虎の本隊は小田原城を対岸に睨む酒匂川(さかわがわ)の東岸に布陣した。
 これを見た氏康は、敵の渡河を狙う野戦陣を布(し)かず、万全の籠城態勢を取る。
 ――さて、景虎。この五里総構えをいかように攻めるつもりか?
 あえて大軍を率いる敵総大将の出方を確かめるつもりだった。
 この永禄四年(一五六一)は暦月がひとつ多い置閏(ちじゅん)の年であり、ちょうど暦は閏(うるう)三月へと入る。
 小田原城には二万余の将兵が入っていたが、初めて大軍に寄せられた北条勢に緊張が走っていた。
「父上、この後、長尾景虎はいかような手に出るつもりなのでありましょうや?」
 氏政が少し不安げな面持ちで訊く。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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