第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)2
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
晴信はすでに入道して徳栄軒(とくえいけん)信玄と名乗っていたが、越後勢にとってはまだ「甲斐の武田晴信」という認識しかなかった。
「ともあれ、御屋形様の参籠が終わるまで、いかなる戦となるのか量りようもない。こたびは何日のお籠もりとなるやら」
宇佐美定満は小さく溜息をついた。
しかし、老将の心配は単なる杞憂(きゆう)に終わる。
なんと、政虎は一夜にしてあっさりと毘沙門堂から出てきたのである。
ゆっくりと支度を始めていた家臣たちは慌てふためく。武田との戦を想定し、当然、総大将の戦勝祈願が長引くだろうと思っていたからである。
だが、今回はたった一晩の参籠があったきりで、政虎は実に穏やかな面持ちで陣触(じんぶれ)を発する。
「これより信濃の川中島(かわなかじま)に出陣いたす」
そう言い放った顔からは、まったく気負いが感じられなかった。
陣触を受け、大わらわで戦支度が進められ、越後勢一万八千余が春日山城を進発する。 それが永禄四年(一五六一)八月十三日のことだった。
信濃の善光寺平でも秋旱(あきひでり)が続いており、立秋の候を過ぎているというのに、頭上には盛夏の如く照りつける天日(てんじつ)があった。
弘治(こうじ)年間からすでに五年以上も旱魃が続いており、その乾ききった地面を蹴り、騎馬の集団が濛々(もうもう)たる土煙を上げながら現れる。
越後勢の先遣隊、村上(むらかみ)義清(よしきよ)、高梨政頼(まさより)などの北信濃勢が善光寺の脇にある城山へと入ってゆく。
騎馬隊の後から長槍を担いだ足軽隊が到着し、兵粮を積んだ馬を引く手明(てあき)隊が続いた。 越後勢は神速の行軍を尊び、他軍が一日十里を行くならば、自分たちは十五里を目指して走ると言われていた。
その噂(うわさ)に違(たが)わず、実に整然とした行軍で、先陣の後も間伸びせずに二陣の本庄(ほんじょう)慶秀(よしひで)、三陣の斎藤朝信(とものぶ)などの軍勢が到着する。
そして、ついに「毘」と「龍」の一文字旗を靡(なび)かせて旗本衆が現れた。
その中央には、放生月毛(ほうしょうつきげ)と呼ばれる象牙色の馬体に真紅の胸懸(むながい)と鞦(しりがい)を下げた見事な騎馬がおり、一目で名馬とわかる風格を備えている。
雷模様の細工が施された漆鞍(うるしぐら)に跨っていたのは、誰の目から見ても越後勢の総大将だった。
馬上の上杉政虎は、紺糸緘(こんいとおどし)の当世具足に萌黄緞子(もえぎどんす)の胴肩衣(どうかたぎぬ)を羽織り、背には「毘」の一文字が金糸で刺繍(ししゅう)されている。
金の星兜(ほしかぶと)にはあえて前立(まえたて)を付けず、頭部全体を白妙(しろたえ)の練絹(ねりぎぬ)で行人包(ぎょうにんづつみ)にしていた。腰元には白銀(しろがね)の鞘(さや)に収められた名刀、小豆長光(あずきながみつ)を佩(は)いている。
政虎の全身には陽炎(かげろう)の如き闘気がまとわりついており、その視線はどこか遠くへ投げかけられていた。
馬蹄(ばてい)の音を聞きつけた門前町の住人たちが、遠巻きに美装の軍勢を見ている。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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