第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)2
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
それを見た柿崎景家は念を押す。
「茶臼山の方へ回り込む小市の渡しがよろしいと存じまするが……」
「さにあらず」
政虎は遮るように言い放った。
あえて敵前に姿を晒(さら)す市村の渡しを使った経路を選ぶということである。
「な、なにゆえ……」
さすがの景家も背筋を凍らせて訊き返す。
先鋒を受け持つはずの村上義清と高梨政頼の北信濃勢も、はっとして顔を見合わせる。
「かかる旱魃で犀川や他の小川の水嵩(みずかさ)も減り、渡しを選ぶ必要もなかろう。されど、もしも水嵩が増していたとしても、真っ直ぐに市村を渡り、そのまま川中島を進めばよい」
「しかれども、海津城の軍勢が……」
「海津城にいる将は、晴信の寵童(ちょうどう)から成り上がった香坂(こうさか)某(なにがし)であると聞く。しかも、城にいるのは、たかだか三千ほどの兵であろう。なにゆえ、余がさような小者を恐れるが如く、わざわざ迂回をせねばならぬ?」
政虎が問い返す。
その面からは笑みが消えていた。
「いえ……。それがしは、その、渡河や行軍の横腹を狙われてはと……」
景家がうっすらと額に汗を浮かべながら、しどろもどろとなる。
「海津城の小者にさような度胸があるならば、すでに犀川対岸に野戦の陣でも構えておるであろう。われらが着陣してから二刻(四時間)ほど経つが、いっこうにさような報告も聞こえてこぬ。おそらく、城門を閉じて震えながら、こちらを窺(うかが)っておるのであろう。さような者が、明朝、急にわれらの横腹を突こうなどという荒武者になれるとは思えぬ。申し忘れていたが、明日の渡河と行軍は、余が先鋒を務めることにした」
政虎はこともなげに言い切る。
総大将が先陣を切って渡河と行軍をする。古今東西、前代未聞の策だった。
「御屋形様!」
宇佐見定満が苦々しい面持ちで首を振る。
「皆が狐(きつね)につままれたような顔をいたしておるゆえ、あえて、この老骨がお訊ねいたしまする。これまでのお話を聞いておりますれば、さきほど申された妻女山への布陣は、どうやら海津城を落とすためのものではないと思えてきました。ならば、なにゆえ、さような布陣をなさるのか、それがしにご教授願えませぬか」
「宇佐美、そなたには五千の兵でこの陣を守ってもらうゆえ、妻女山のことは気にいたすな。余は海津城と武田の小者どもを仕置するために、かような所まで出張ってきたのではない。先ほども申したが、妻女山への布陣は、晴信の本隊が来るのを待つためのものである。それがゆえ、海津城の者どもの目に、余の姿をしかと焼き付けておく必要がある。それだけのことだ」
「御屋形様がさように申されるのならば、なおさら、この老骨も妻女山に連れていってもらわねば困りまする。さように前代未聞の戦ならば、見聞せずに死ぬるわけにはまいりませぬ。この陣の後詰は、誰か他の者にお命じくださりませ」
頑固な老将の言葉に、思わず政虎も苦笑する。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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