よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)2

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 当然のことながら、その中には武田の三ッ者が紛れ込んでおり、見物をする振りをしながら、しっかりと越後勢の兵数を目算していたはずである。
 それだけではなく、越後の忍びである軒猿(けんえん)も先遣隊より先にこの善光寺平に潜んでおり、細作(さいさく)に出ている甲斐の透破(すっぱ)らしき者に目配りしている。怪しげな動きをする見物人を探し、どこへ行くかを確かめようとしていた。
 政虎が旗本衆に囲まれて善光寺城山へ入っていくと、直江景綱(かげつな)が率いる中備え、柿崎景家の後備えと上杉家譜代の重臣たちが続き、最後には荷駄隊を守る殿軍(しんがり)の甘粕(あまかす)景持(かげもち)が到着した。
 善光寺の城山には幔幕(まんまく)が張られ、慌ただしく陣所の設営が始まっている。行軍と同じく、ここでも越後勢の動きは素早かった。
 政虎は何よりも緩慢な動作や優柔不断な性格を嫌っており、兵たちにもきびきび動くことを奨励している。それが戦いにおける全軍の動きにも繋(つな)がっていた。
 あっという間に設(しつら)えられた陣所の帟(ひらはり)の下で、政虎は床几(しょうぎ)に腰掛けて兵たちの動きを満足げに見ていた。
 その横顔を、遠目から見ていた家宰(かさい)の直江景綱が、柿崎景家に囁きかける。
「景家、こたびは御屋形様の御尊顔がいかにも落ち着きすぎのように見えて仕方がないのだが、それがしの気のせいであろうか?」
「いいえ……」
 景家は腕組みをして首を振る。
「……実は、それがしも同じことを思うておりました。武田相手の戦であるからして、烈火の如き鬼相で御出陣されるのかと思いきや、まるで鷹野(たかの)へでも出たような気配でおられる。なんともはや、解せませぬ」
 越後で四天王と言われている重臣二人は、同じようなことを考えていたようだ。
「坂東へと出張った時は、まさに毘沙門天王の如く昂(たか)ぶっておられたのにな。こたびは出陣前の御祈願もたった一夜、覇気を感じぬとまでは申さぬが、いったい、いかがなされたのであろうな」
 景綱も小首を傾(かし)げた。
「大和守(やまとのかみ)殿、御屋形様はこたびの戦も長引くとお考えになっておられるのではありませぬか。それゆえ、あのように慌てず騒がずの躰(てい)でおられるのではありませぬか」
 景家は顎髭(あごひげ)をしごきながら呟く。
「なるほど。長い戦となれば、最初からいきり立っていたのでは軆(からだ)が持たぬ。ならば、やはり、眼前の犀川(さいがわ)を挟んでの戦構えとなるのであろうか。それはなかなかに、難儀な戦となるやもしれぬ」
 直江景綱は二度目の川中島戦を想い出し、渋い表情になる。
 二度目の戦いは犀川で一度だけ干戈を交えた後、五ヶ月以上も武田勢と睨み合うことになり、互いにこれといった戦果もなく長い在陣で疲弊した。
「ともあれ、間もなく軍(いくさ)評定も始まり、そこでこたびの軍略も明らかとなりましょう。御屋形様の顔色のことで、われらが気を揉(も)んでも仕方ありますまい」
 景家は苦笑を浮かべる。
「さようだな。それがしは宇佐美殿がいかように思われているか、それとなく訊ねておく。そなたは景持の意見を訊いてみてくれ」
 直江景綱は気を取り直すように言った。
「わかりました」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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