よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)2

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 敵味方の勢力が記された地図を睨(にら)み、氏康は戦の行方を想定しようとする。
 ――われらの味方は確かに少ないが、各国にいてくれるだけ有り難い。総力戦となった時には、敵方に付いた勢力の領地を脅かしてもらえば、それだけで兵力には換算できぬ効果をもたらしてくれる。問題は敵がどのような戦いを仕掛けてくるかであろう。最悪なのは、敵の総軍がまとまり、われらの城をひとつひとつ総攻めで落としながら小田原まで寄せてくることだ。
 初陣の時、左頰に刻まれた刀瘡(とうそう)が疼(うず)く。
 河越城の夜戦を経験して以来、氏康は常に自軍にとって最悪の展開から合戦の想定をするようになった。
 ――もしも、長尾景虎が率いる関東管領の連合軍が総攻めをするならば、武蔵野北端に位置する松山城を皮切りに、河越城、江戸城を落とした上で相模へ入ってくる。続いて、小机(こづくえ)城、甘縄(あまなわ)城を攻め落とし、小田原へと辿(たど)りつくであろう。されど、相模にはまだ滝山(たきやま)城や津久井(つくい)城があり、それらを無視はできまい。
 氏康が考えた順路では、上野の厩橋城から南東に十五里(約六十`)離れた武蔵国の松山城(横見〈よこみ〉郡松山〉)が最初の標的となっていた。
 松山城を落とした後に南下を続け、河越城(入間〈いるま〉郡三芳野〈みよしの〉)、江戸城(豊島〈としま〉郡江戸)を攻め落とせれば、相模との国境(くにざかい)に出る。
 次の標的は相模国の小机城(橘樹〈たちばな〉郡小机)、鎌倉への入口となる甘縄城(鎌倉郡玉縄〈たまなわ〉)を経て、小田原城(足柄下〈あしがらしも〉郡小田原)に寄せることができる。
 しかし、江戸城と小机城の西側には、滝山城(多摩〈たま〉郡滝山)、津久井城(津久井郡相模原)という堅固な城があった。
 この二城にそれなりの遊軍を置けば、行軍で延びきった敵の横腹を突くこともできる。
 ――この総攻めの策に欠点があるとすれば、おそらく時がかかり過ぎることだ。ひとつの城が十日間の籠城で持ち堪(こた)えれば、小田原に着くまで一月半の時を稼げる。旱魃(かんばつ)続きの飢饉で、兵粮(ひょうろう)は決して潤沢ではないはずだ。大軍の維持はかえって難しくなる。やはり、一本道での総攻めには、無理があるやもしれぬ。
 次に氏康が考えたのは、景虎が十万の軍勢をそれぞれの城の攻略に振り分け、本隊だけが小田原城に攻め寄せるという策だった。
 ――籠城しているのが明らかな七つの城にそれぞれ一万の軍勢を割り当てるとするならば、残る本隊は三万余。景虎が率いるとしても、この城に籠もって戦うとすれば、何とか凌(しの)げる自信はある。
 小田原城は「五里総構え」と呼ばれ、曲輪だけでなく、小田原宿を丸ごと取り込む堅固な大外郭を持っている。城内には商家や農家もあり、物品が備蓄され、農産物を作り続けることもできた。
 籠城すれば、それらが確実に活(い)きてくる。
 ――戦が長引けば、籠城からの出戦で各個撃破もあり得る。その時は各国の味方にも陽動で敵の拠点を攻めてもらえばよい。問題は、各城に誰を入れておくかであろう。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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