よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)2

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 その日の夕刻、風魔小太郎が手下の二曲輪(にぐるわ)猪助を伴い、報告のために小田原城へやって来る。
「これはこれは、すでに御屋形様と大御屋形様がお揃(そろ)いとは、やはり、この異変に気づいておられましたか」
 小太郎が至極まじめな面持ちで言う。 
「小太郎、前置きはいらぬ。本題を申せ」
 眉をひそめた氏康が報告を促す。
「わかりました。関宿城のことはすでにご存知と思いますゆえ、その目論見について申し上げまする。長尾景虎と上杉憲政がかの城に攻め寄せましたのは、われらが庇護(ひご)する古河公方の足利義氏殿を追い出すためにござりますが、それだけではなく里見義堯が久留里城で匿(かくま)っていた足利藤氏(ふじうじ)を入れるためではないかと」
「なに!?……今さら藤氏を新たな公方に擁立しようという魂胆か!」
 足利藤氏は足利晴氏の長男であり、北条家が擁立した義氏の異母兄だった。
 しかも、その母は簗田高助(たかすけ)の娘であり、今回寝返ったとされる簗田晴助の姉である。
 河越城夜戦の敗北により、足利晴氏は古河公方としての権勢を失って栗橋(くりはし)城に幽閉され、その長男である足利藤氏も古河から追放され、安房の里見義堯を頼っていた。
 これにより氏康が次男の義氏を公方に押し上げたのだが、関東管領の座を追われた上杉憲政は長尾景虎の兵力を借り、それらを逆転すべく坂東に戦を仕掛けてきたのである。
 すでに亡霊の如き存在であった足利藤氏の名を聞き、氏康はまたしても河越城夜戦前の悪夢が甦(よみがえ)るような気がした。
「御二方がお察しの通り、足利藤氏を新たな公方に据え、上杉憲政を関東管領として復権させれば、まだ態度を曖昧にしている坂東勢を糾合できるやもしれませぬ。しかも長尾景虎の率いる越後勢が武力の後盾となるならば、北条家の勢いを快く思うていない者どもは靡(なび)いていくのではありませぬか。関宿城の急襲には、さような目論見があったかと。されど、事はそれほど単純ではなさそうにござりまする。上杉憲政と長尾景虎の背後に、いくつかの奇妙な影がちらついておりまする」
 風魔小太郎が思わせぶりな言い方をする。
「その影とはいったい何であるか?」
 氏康が答えを急がせる。
「少なくとも、二つの人影にござりまする。それにつきましては、越後ではもっぱら評判になっている話がありました。昨年、景虎が上洛(じょうらく)した折に、京の公方、足利義輝(よしてる)から関東管領補佐の名分が与えられたという風聞にござりまする」
「公方から坂東を統(す)べる権限を与えられたということか?」
「それに近い話だと解しておりまする。上杉憲政を復権させ、新しい古河公方を擁立できたならば、長尾景虎は補佐として坂東でいくらでも権限を振るうことができるようになるやもしれませぬ。それと、もう一人の影は、今年になって京の都から越後に下向(げこう)した朝廷の大物にござりまする。在洛中に景虎と気脈を通じた公卿(くぎょう)らしく、名を近衛(このえ)前嗣(さきつぐ)というとか」
 小太郎の話に、思わず二人が顔を見合わせる。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number