よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)2

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 軍評定が終わり、宇佐見定満が困惑した面持ちで柿崎景家の肩を叩く。
「やれやれ、こたびは見たことも聞いたこともない戦になりそうだな。そなたが申した通り、武人の本懐を遂げる戦ではありそうだがな」
「……いえ、それがしにも読めておりませんでした」 
 直江景綱がその輪に加わる。
「景家、御屋形様が落ち着きすぎているなどとは、完全な見損じであったな。あれほど冷たく戦を語る御屋形様を初めて見た。烈火などという生やさしいものではなく、地獄の業火をも凍らせるほど冷徹なご決意であったのだな」
「生まれながらにしての軍神は、まことにいる。本日はそれを目の当たりにいたしました。こたびの御参籠が短かったのは、御屋形様が一夜にして毘沙門天王を勧請なさったからでありましょう。いずれにせよ、これからはわれらもしっかりと兜の緒を締めておかねば」
 柿崎景家は何度も拳を掌(てのひら)に打ちつける。
「それがしも本日からは、何が起きても動ぜぬと心に決めた」
 直江景綱は苦笑しながら猛将の背中を叩く。
「良い冥途(めいど)の宮笥(みやげ)になりそうじゃ」
 宇佐見定満が顰面(しかみづら)でぼやく。
 それから、三人はそれぞれの陣へと戻った。
 翌日の払暁、薄い朝靄(あさもや)が流れる中、宣言通りに政虎と旗本衆を先頭にした越後勢が善光寺を出発する。
 すぐ南側の市村で渡河を敢行し、一万三千の軍勢が渡りきった頃には、朝靄も消えていた。
 眩(まばゆ)い日射しが降り注ぎ始める中、政虎の率いる越後勢はあえてゆっくりと八幡原を横切っていく。やがて、左手側に海津城が見えてきた。
 行く手に敵が潜んでいる気配はなく、遠くの城もひっそりと門を閉ざしているようだった。
 先頭にいた政虎は、突然、右手を挙げて大音声(だいおんじょう)を発する。
「駒を止めよ!」
 手綱を引いて馬首を返した総大将は、海津城と向かい合うように愛駒を止める。
 しばらく、半眼の相で敵城を眺めていた。
 周りの旗本衆もそれにならい、海津城に馬首を向ける。それが後方の軍勢に次々と伝播(でんぱ)してゆく。
 政虎は、隣で紺地に日の丸の入った大扇の馬標(うまじるし)を携えている小島(こじま)貞興(さだおき)郎に声をかける。
「弥太郎(やたろう)、あの臆病者どもに大きく扇を振ってやれ」
「御意!」
 小島貞興は両手で高々と大扇を掲げ、日の丸を大きく左右に振る。
 この漢は身丈が六尺を超える鬼柄者(おにがらもの)で、鬼小島弥太郎の異名を持つ旗本衆だった。行軍の時は、常に政虎の側でこうした馬標を抱えている。
 それを見て、他の馬標も一斉に振られ始め、辺りには海津城に向けた嘲笑が渦巻いた。
「貝を吹き、鬨(とき)をあげよ!」
 政虎の合図で、法螺貝(ほらがい)が吹き鳴らされ、旗本衆が凄(すさ)まじい鬨の声を上げる。
 その鯨波(げいは)が次々と後方の部隊にまで広がってゆく。
 敵の姿を認めながら手をこまぬいている海津城への侮蔑をこめた挑発だった。
 それから、全軍は何事もなかったように馬首を戻し、一路、妻女山を目指す。
 その日の正午、妻女山の頂上に登った政虎は、唐(から)渡りの馬上杯を片手に息をひそめる海津城を見下ろしていた。
 実に奇妙な戦の構え方である。
 これが後の世にまで伝説の如く語り継がれる四度目の川中島合戦の始まりだった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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