第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)2
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「元々、守護代が極官の家系に生まれた次男ゆえ、何よりも幕府に認められ、己の格を上げたいのではありませぬか」
「そのためにわざわざ元の名を捨て、上杉政虎などという間抜けな名を選んだというのか。今さら山内上杉の名跡などに何の価値もあるまい」
「それでも名門の誉(ほま)れが欲しかったのでしょう」
「勝てもせぬ戦に十万もの人を集め、徒(いたずら)に兵粮を無駄食いし、領国にもならぬ土地の、名ばかりの君主になるため、十ヶ月も越後を留守にしたわけか。大した戯(たわ)けか、救いようのない莫迦者としか思えぬ!」
珍しく感情を露わにし、信玄が吐き捨てる。
「あの莫迦者が越後へ帰れば、すぐに北条家が坂東で巻き返しを図る。集まった坂東の烏合(うごう)の衆もすぐに離反を始めるであろう。まあ、他国の愚行ゆえ、当家とは関わりないが、信濃を荒らすことだけは絶対に許さぬ」
「兵粮のこともあり、しばらくは戦ができるとは思えませぬが」
信繁が冷静に答えた。
「われらはしっかりと兵粮を貯(たくわ)え、善光寺平(ぜんこうじだいら)の守りを万全にいたす。海津城が完成した今が最も大事な時期だ」
己に言い聞かせるように、信玄が呟いた。
永禄四年(一五六一)六月下旬、上杉政虎は厩橋城を発ち、十ヶ月ぶりに越後へ戻った。
――相変わらず旱魃による飢饉も続いており、これでしばらくは大きな合戦も起こせないであろう。
しかし、そんな信玄の思いを完全に裏切る出来事が起こってしまった。
六十五
暮方の斜光に照らされた春日山(かすがやま)城で、上杉政虎(長尾景虎)の毘沙門堂(びしゃもんどう)参籠が始まろうとしていた。
戦の直前になると食を断ち、心気を高めるため毘沙門堂に籠もり、それは数日にも及ぶ。長ければ優に十日間を超えることもあった。
政虎の参籠が始まったと聞くやいなや、家臣たちは黙って戦支度を始めるのが通例となっている。
毘沙門堂から出た政虎は奉納していた太刀を抜き、霊験(れいげん)の宿りを感じさせるような面持ちで出陣の号令を発する。その時すでに、家臣たちは戦支度を万端に整えているのが当たり前だった。
しかし、今回の場合、坂東への遠征が終わってから間もないこともあり、家臣たちの間に動揺が走っていた。
間断のない戦に将兵たちの疲労がつのり、それが越後勢の士気を落としていた。
先陣大将の柿崎(かきざき)景家(かげいえ)はその気配を感じていながらも、下の者たちに動揺を悟られぬよう平然と戦支度を始めた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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