よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)2

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 政虎は出陣に際して細かい軍略を語らず、着陣してからの軍評定で明らかにされる。戦場の状況を把握したこの総大将が、臨機応変に軍略を考えて大筋を述べ、それを家臣たちが細部にわたって詰めていく。
 しかも、総大将が考えた軍略には、誰も反対の意を唱えたりしなかった。
 それがこれまで政虎と越後勢が培ってきた流儀である。
 今回の評定もその通りに進められていたが、将たちの様子だけがいつもと違っていた。心なしか、ほとんどの顔から血の気が引いているように見える。
 評定の場は、しばしの沈黙に包まれていた。
 それを打ち破るように、政虎が凜(りん)とした声を発する。
「荷駄隊を含めた五千の後詰(ごづめ)をこの善光寺城山の陣に残し、残りすべての兵で妻女山を目指す。甲斐から慌てふためいて駆けつける武田晴信を、われらは山上からゆっくりと眺めることになるであろう」
 政虎は胸を反らし、口元に微(かす)かな笑みを浮かべた。
「何か、訊きたいことはあるか?」
 政虎が超然とした眼差しで一同を見回す。
 家臣たちは一様に俯き加減となり、黙り込んだままである。
 この予想だにしなかった軍略に違和を感じていたが、積年の習慣からか、誰も口を開けないでいた。
「ならば、これにて軍評定を締める」
 政虎の声に、思わず直江景綱が面(おもて)を上げ、対面の柿崎景家を見つめる。
 ――何か、お訊ねせねば。このままで評定を終わらせてはいかぬ。
 そんな目配せだった。
 阿吽(あうん)の呼吸で、景家が手を挙げる。
「……御屋形様、ひとつ、お訊ねいたしてもよろしかろうか?」
「何であるか、景家」
「犀川の渡河に関して、あえて、お訊ねいたしまする。渡しには市村(いちむら)と小市(こいち)の二カ所がありますが、どちらを使われるおつもりにござりまするか?」
 この漢が言ったように、犀川を渡って川中島を横切るには二つの経路が考えられる。
 ひとつは善光寺のすぐ南にある市村の渡しを抜け、八幡原(はちまんぱら)を突っ切っていく経路である。
 これは千曲川を挟んで敵方の海津城の鼻先をかすめていくことになるので、普通の行軍ならば絶対に避けるべき道筋だと思われた。
 しかも川中島を進むためには、さらに小犀川と御幣川(おべんがわ)というふたつの支流を渡らねばならない。
 もうひとつは、善光寺の南西に大きく迂回(うかい)し、小市の渡しを通り、妻女山の対面にある茶臼山(ちゃうすやま)の麓を進む経路である。こちらは行軍していることさえも城から見えるかどうかわからず、まったく安全な道筋だった。しかし、相当な迂回になることは間違いない。
 家中一の猛将からの問いに、政虎は微かな笑みを浮かべたままで黙っている。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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