家臣の慌てぶりを意に介さず、信虎は眼を細めて虚空を睨(ね)めつける。 「今川修理大夫、京に尾を振る忌々しき歯黒かぶれめが! 源氏の風上にも置けぬ!」 己が甲斐源氏の宗家に生まれたことを、この上なき誉れと思っていた。 今川家は「御所絶えなば吉良(きら)が嗣ぎ、吉良絶えなば今川が嗣ぐ」と謳われるほど、足利公方家をはじめとする清和源氏の本流に近い血脈である。しかし、当代の惣領(そうりょう)、今川氏親は京の中御門(なかみかど)家から正室を迎え、上流の公家との繋がりが深まってか、連歌や蹴鞠を好んで駿府を京風に創り変えた。 それを軟弱と蔑み、信虎は会ったこともない今川家の惣領を毛嫌いしている。 その宿敵の侵攻に対し、急ぎ戦支度を整えなければならなかった。 急拵えで編成された武田勢は、鰍沢(かじかさわ)から身延道を南下して河内(かわうち)(峡南)に布陣する。 そして、富士山の西麓で両軍が睨み合う形となった。 富士西麓は甲斐と駿河の国境が入り組み、両家にとって長らく争いの火種となっている。合戦の勝敗によって国人衆や地頭たちの帰属も、目まぐるしく変わった。 今年の二月にも、今川勢が河内へ出張ってきたが、武田信虎はこれを撃退した。 だが、今回はまったく状況が違っている。 今川勢は一万を超える大軍であり、武田勢の兵は三千弱しか集まっていない。敵方が入念な合戦の準備を行った上で、信虎の虚を突いて出兵してきたということだ。 しかも、相手の総大将は旗印から察するに、高天神城(たかてんじんじょう)々主の福島(くしま)正成(まさしげ)だった。今川氏親の重臣であり、家中随一の猛将という呼び声も高い剛の者である。 それらの事柄を見ても、武田勢が完全に後手を引かされたのは明らかだった。 暦が変わって九月六日になると、福島正成は大島(身延町)で武田勢の先鋒を打ち破り、余勢を駆って巨摩(こま)郡の富田(とだ)城を攻め落とす。この城は甲斐の新府から南西に三里半(約十四`)ほどの地点にあり、武田信虎は喉元に刃を突きつけられる形となる。 今川勢は富田城に陣取り、武田家の本拠地へ進攻すべく様子を窺った。 信虎は新府から二里(約八`)しか離れていない飯田河原まで後退し、荒川を挟んで敵を迎え撃つ構えを取る。今川勢にここを突破されれば本拠地の陥落は免れず、武田勢としては絶対に負けられない窮地に立たされた。 そして、富田城陥落の一報は躑躅ヶ崎(つつじがさき)に建てられた新しい館にも届けられ、信虎の身内や家臣たちに大きな動揺が走る。 これを静めるべく、留守を預かった重臣の板垣信泰が動いた。 「信方、今川の軍勢が釜無川(かまなしがわ)近くの竜地台まで押し寄せている。念のため、大井の御方様に要害山(ようがいやま)城へお移りいただくぞ。そなたが供をせよ」 信泰は息子の信方に、武田信虎の正室を警護するよう命じる。