「構わぬ」 「有り難うござりまする。そもそも今川家の客将として河東の興国寺(こうこくじ)城を預かった伊勢盛時(もりとき)、われらの知る早雲庵宗瑞は備中の出であり、京の政所(まんどころ)で奉行衆として仕えていたそうにござりまする。ところが、半将軍とまで呼ばれた細川政元(まさもと)殿が管領職になった頃、幕府の政変に巻き込まれ、職を辞さねばならなくなったと聞きました。そこで姉が嫁いでいた駿府の今川家に寄寓し、そこから客将にのし上がったとのこと。どうやら、今川氏親が家督争いをしていた時に、伊勢宗瑞が京の幕府に根回しを行い、争っていた小鹿(おしか)範満(のりみつ)の討伐を手伝っていたようにござりまする。その褒美として河東の所領をせしめ、京で勤めている時から、私腹を肥やしていたのではないかと」 「待て、虎春。奉行衆といえば右筆(ゆうひつ)方、文官ではないか。奉公衆とは違い、戦には出てこぬはずだぞ。なにゆえ、筆を刀に持ち替えたのか」 信虎が訝しげな面持ちになる。 「いま申し上げました通り、政変で負けた責任を取り、京を去らねばならなくなったからでありましょう。今川家も代替わりしたばかりで内外に敵を抱え、文を認(したた)めて理屈をこねているだけでは済まぬ状況でした。背に腹は代えられず、戦に出張るようになったのではありませぬか」 「なるほどな。では、改姓についてはどうか」 「それにも裏があるようにござりまする。宗瑞が責を負うた政変の中身とは、管領職の細川政元殿が画策し、伊豆の堀越(ほりごえ)公方様を京へ担ぎ出そうとしたものらしく、今川家も関与しているようにござりまする。それほど、京の管領職と深い繋がりがあったと。しかも細川政元殿は明応の政変で公方様の首をすげ替えるほどの実力を持っておられました。伊勢家の改姓を認めさせることなど造作もなかったと思いまする。されど、不思議なのは、なにゆえ、それほど深い関係であったのかということにござりまする。宗瑞は政元殿よりも遥かに歳上で、京で一緒にいた時期もさほど長くはありませぬ。そこで、それがしが調べてみたところ、思わぬ風聞を耳にいたしました。ここでは少し、申し上げ辛うござりまするが……」 飯田虎春は視線を太郎と次郎の席に向ける。 「構わぬ、続けよ」 「あ、はい……。宗瑞と政元殿が、衆道(しゅどう)の間柄ではなかったのかと」 衆道とは、男色の関係だということである。 当世では衆道が禁忌ではなく、武士も稚児遊びなど嗜(たしな)んでもよいとされていたが、男色の気がない者は邪道と蔑んでいたことも確かだった。 「ほう、話がだいぶ面白くなってきたな。先が聞きたい」 信虎が薄く笑いながら話を促す。 一同もすっかり興味をそそられていた。