今川勢は躑躅ヶ崎館への侵攻を断念し、南側を流れる笛吹川(ふえふきがわ)を渡って八代(やつしろ)郡の上曾根(かみそね)まで退き、残った兵の態勢を立て直そうとした。 敵の動きを見た信虎は対岸で相対し、再び両軍の睨み合いが続く。その間に、暦が十一月へと変わった。 そして、細く尖った二度目の月を迎えた夜のことである。 連日の不寝番が続き、不動曲輪で眠気に苛まれていた信方の処へ、蒼白になった侍女の藤乃が駆け込んでくる。 「大変にござりまする」 「……い、いかが致した?」 信方は落ちかかっていた瞼を開く。 「御方様が……御方様が産気づいておられまする」 「えっ!?」 もたれていた板壁から背を離し、信方が聞き返す。 「……いま、何と?」 「御方様が産気づいておられまする。陣痛が始まりましたゆえ、御子がお生まれになってしまうやもしれませぬ」 「さようなことを、それがしに言われても……。産婆が同行しておるではないか」 信方は思わず顔をしかめる。 「その産婆の方が、このままでは大変だと申されておりまする。ここでのご出産は難しい、と。しかも十月十日にはまだ至っておらず、早産となれば御方様と御子の双方にとって危険であるとも申されておりまして」 侍女の藤乃は真剣な面持ちで訴える。 「産婆が居りながら、ここで出産ができぬというのは、なにゆえであるか?」 「産湯(うぶゆ)が使えぬからにござりまする」 「それならば、井戸の水があるではないか」 「何を申されまするか!」 細い眉の両端を吊り上げ、藤乃が強い口調で言う。 「かように寒い時節の井戸から汲んだ水で、生まれたばかりの赤子の軆を洗えば、冷たすぎて息が止まってしまいまする! それゆえ、大変だと申し上げました」 「えっ……あ……ああ、さようか」 信方は意味もなく立ち上がって頭を掻く。 ──この身に「火を起こし、湯を沸かせ」と申しておるのか? そう思ったが、口にはしなかった。 藤乃の顔色と剣幕を見れば、そんな悠長なことをしていられないのは明らかだった。 「……それがしは、何をすればよいのか?」 信方は所在なげに訊く。 独り身の漢(おとこ)にとって出産はおろか、妊娠についての智識さえない。ここは黙って女人の言うことに従うしかなかった。