信虎は追撃の手を緩めず、正成の旗本六百余の将兵を討ち取る。深夜になって雪が降りしきる中、今川勢はなりふり構わず富田城に向かって敗走した。 武田勢の完全なる勝利だった。払暁と同時に、上条河原に勝鬨の声が響きわたる。 この一報は朝のうちに要害山城にも届けられた。 信方は積翠寺で産後の養生をしている大井の方に勝利を知らせてから、躑躅ヶ崎館に向かう。すでに主君の信虎が帰還しており、御子の誕生を報告しなければならなかったからだ。 具足を解いた信虎は上機嫌で、すでに朱塗りの大盃を傾けている。 「おう、信方か。留守居、大儀であった。されど、こたびは戦場にいた方が面白かったであろう。逃げ惑う今川の者どもは見物であったぞ。福島正成とやらの首も奪った。さて、あの首級をどうするか……。塩漬けにして、あの歯黒に送りつけてやるか。いや、塩がもったいないな。素っ首を富田城の門前にでも晒してやろうではないか。武田に背けば、こうなるという見せしめにな。うっはっはっははは」 主君はまだ戦いの昂奮が冷めやらぬといった様子で捲(まく)し立てる。 それが終わるまで、信方は辛抱強く待っていた。 「して、信方。何の報告であったかな」 「懼(おそ)れながら申し上げまする。去る十一月三日に、御方様がご出産なされまして……」 信方の言葉を遮り、信虎が訊く。 「こたびはどちらだ?」 大井の方との間には、すでに女子が一人、誕生していた。 「立派な男(お)の子(こ)にござりまする。報告が遅くなりまして、まことに申し訳ありませぬ」 「まあ、それは仕方あるまい。戦が終わる前に聞いていても、駆け付けるわけにはまいらぬからな。かえって聞いておらぬ方が、眼前の戦いに集中できたわ。そなたもさように考えたからこそ、余計なことを耳に入れなかったのであろう?」 「……はい」 信方は眼を伏せて頷く。 余計なこと。嫡子の誕生をそう言った主君に違和感を覚えたが、信方は表情を変えなかった。 「ふぅむ。三日に、男子がな……」 信虎は冷めた顔つきでそっぽを向く。 「せめて、余の勝ちが決まってから産めば、もっと、めでたく思えたであろうに。堪え性のない女だ」 主君の冷酷な呟きにも、信方は眉ひとつ動かさない。