あの時、信方は初めて主君を恐ろしいと思った。 家臣はおろか、領民までが恐れおののく、餒虎の本性を見てしまったような気がする。それから、見えない大岩でも背負わされたように両肩が重くなった。 晩秋にもかかわらず、信方は額に汗を浮かべ、担ぎ手たちを先導する。 大井の方を乗せた四方輿は九十九折りになった最後の急坂を登り、やっとのことで本丸へ到着した。 「御方様、ここまで来れば、もう安心にござりまする。われらが城を警固いたしますゆえ、ごゆるりとお休みくださりませ」 信方は輿から降りる大井の方に頭を下げた。 「……かたじけのうござりまする」 「では、奥へ」 信方は一行を寝所に案内し、侍女を束ねている藤乃(ふじの)に申し渡す。 「何かあれば、遠慮なく申し出てくれ」 「……ありがとうござりまする」 藤乃は不安そうな面持ちで頭を下げる。 「では、御方様を頼む。われらは持場へ戻る」 女人たちを寝所に落ち着かせた後、信方は城の追手門(おうてもん)脇にある不動曲輪(ぐるわ)へと戻った。 これが九月の終わりのことである。 使番(つかいばん)の者たちが一日に何度も要害山城と躑躅ヶ崎館の間を往復し、戦況を伝えることになっていたが、暦が十月に入っても両軍は睨み合ったままだった。 不気味な静寂の中、気息を押し潰されるような緊張が続き、信方の重圧だけが日を追うごとに高まっていく。 ──いざという時、この身はまことに御方様を斬れるのだろうか? 考えまいとしても、そんな問いが脳裡に浮かんでくる。 ──本来ならば、御屋形様の血を分けたお子と一緒に、御方様をどこかへ逃がすというのが、真の忠臣ではないのか。 しまいには、己がこの場から逃げたい心境になるが、信方は奥歯を噛みしめて堪える。 ──いや、今はさようなことを考えている時ではあるまい! 御屋形様の勝利を信じるだけだ。……されど、万にも及ぶ手練の今川勢を、まことに三千余で撃退できるのか?……かなり厳しい戦いになることだけは確かだ。 虚しい自問自答だけが去来した。 武田信虎が板垣親子に非情とも思える命令を下したことには深い理由がある。それは大井の方の境遇にも深く関わっており、武田家の複雑な事情を物語っていた。 そのことは父から聞かされ、信方も心得ている。 大井家は元々、武田一門に属していた甲斐西郡の国人衆である。しかし、大井の方の父である上野城(椿城)城主、大井信達(のぶさと)は武田家から離反し、長らく今川家に属していた。 それは甲斐における内訌(ないこう)の構図を最も端的に表していた。内訌とは、家督争いを含めた内輪揉めのことである。