連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 大わらわで移座の支度が行われ、夜更け過ぎに大井の方を乗せた四方輿と荷車が出立する。
「皆、足許に気をつけて慎重に御方様を運ぶのだ! 決して転ぶでないぞ!」
 信方は先頭に立ち、龕灯(がんどう)で坂道を照らしながら進む。
 屋形の中からは、大井の方の苦しげな呻き声が漏れてくる。
 ──まるで、大病人の如き苦しみようではないか。出産とは、かくも大変なものなのか……。
 初めてのことばかりで、信方は戸惑いを隠せない。
 半刻弱で積翠寺へ到着し、夜中に起こされた住持は驚いていたが、武田家の大事と知って快く迎えてくれた。
 信方は本堂に荷物を運び入れ、急ぎ仮の産室を設(しつら)える。大井の方をそこに寝かせてから、藤乃と産婆に後事を託し、さらなる仕事に向かった。
 まずはいくつかの火鉢に灼炭(やきずみ)を入れ、本堂に置く。産室を冷やさないためであった。
 それから家臣を伴って四町歩(約四百b)ほど離れた涌湯へ行き、桶に熱い湯を汲んで寺へ戻る。産湯に使うためのものだったが、分娩がいつ終わるのかは、まったくわからない。
 信方は本堂の隣にある庫裡で待機していたが、時折、大井の方の苦しげな声が聞こえてくるだけだった。
 ──産婆は陣痛の間隔が短くなってから、御子を取り出すと申しておったのだが、どのくらい時がかかるのか、見当もつかぬ……。
 汲んで来た湯はすぐに冷めてしまい、再び涌湯へ行かねばならなかった。
 外で石を焼き、それを冷めた湯に入れ、温度を戻すことも考えたが、塵が浮いてしまうので産湯には使えない。
 結局、何度も温泉場へ行き、湯を汲んでくるしかなかった。
 通常、出産の場合は始まった陣痛が短い間隔になり、そこから二刻(四時間)もあれば分娩を終えることができる。しかし、大井の方は細身のせいか、たいそうな難産だった。
 四半刻(三十分)ごとにお湯を汲みに行き、それが十二回を超えようとした頃である。
 本堂の中が、にわかに騒がしくなる。
「ほれぇ、息んで。ひぃ、ふぅ、みぃ……」
 嗄(しわが)れた産婆の声に続き、悲鳴に近い大井の方の声が聞こえてきた。
 その声で、瞼が落ちかけていた信方も飛び起きる。
「……おい、さきほど汲んで来たお湯は冷めておらぬか?」
 訊かれた家臣は桶に指を入れ、熱さを確かめる。
「ちょうどよい湯加減かと」
「さようか」
 そう答えながら、信方は本堂の様子に聞き耳を立てる。



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〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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