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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「上洛か……」
 信虎が遠くを見るように呟く。
 細川政元の死後、去る大永七年(一五二七)二月に、公方の足利義晴(よしはる)と補佐していた細川高国が京を脱出し、近江国へ逃れる事件が起こった。
 この時、信虎は足利義晴の身を案じ、使者を派遣している。
 公方の義晴は諸国の守護や有力な守護代に上洛を促し、信虎に対しても御内書で上洛を要請し、上杉憲寛(のりひろ)、諏訪(すわ)頼満(よりみつ)、木曾(きそ)義元(よしもと)に対しても御内書を発し、信虎の上洛へ助力するよう命じた。しかし、この時は甲斐を留守にできる状況ではなかった。
「京まで行くには、とりあえず信濃の諏訪頼満をなんとかせねばならぬ。首にしてしまうのが一番手っ取り早いのだがな」
 信虎は五年前に信濃の諏訪攻めを行ったが、境川(さかいがわ)の合戦で諏訪頼満を打ち破ることができなかった。
 その報復として、諏訪頼満は信虎に背いた今井信元(のぶもと)、飯富虎昌(おぶとらまさ)に与力し、韮崎(にらさき)まで攻め寄せてきた。今井、飯富などが離反したのは、信虎が上杉憲房(のりふさ)の娘を側室に迎え、山内上杉家と盟を結ぶことに反撥したからである。
 この叛乱はすでに収めたが、依然として信濃の諏訪頼満は西の敵として残ったままだった。
 北条との敵対を加えると、武田家は背腹双方に敵を抱えており、信虎はまだ上洛の要請に応えることができなさそうだった。
「虎春。ともあれ、よく調べてくれたな。おい、勝千代。先ほどから殊勝な面持ちで話を聞いておるが、意味はわかっておるのか?」
 だいぶ酔いが廻った顔で、信虎は太郎に矛先を向ける。
「……すべてはわかりませぬが、大事なお話として覚えておきまする」
「覚えておきまする、か。虎春は重臣となっても日々精進と申しておる。お前は近頃、何をやっておるのか?」
「長禅寺(ちょうぜんじ)の岐秀(ぎしゅう)元伯(げんぱく)禅師に講話を施していただき、武経七書(ぶけいしちしょ)の修学をしておりまする」
「ああ、御方が呼び寄せた臨済宗の坊主か」
「はい」
 岐秀元伯は臨済宗妙心寺派の禅僧であったが、大井の方に招かれ、大井家に縁のある巨摩郡大井荘(おおいのしょう)の長禅寺に入山し、太郎に「孫子」をはじめとして「三略(さんりゃく)」「六韜(りくとう)」などの武経七書を教えていた。
「七書は、どこまで進んだ?」
「孫子を終えまして、いま三略を学んでおりまする」
「ほう、孫子を終えた、と」
 信虎は酔眼を細め、小さく嗤笑(ししょう)する。
「ならば、いま学んでおることを、何か聞かせてみよ」
「はい、承知いたしました」
 太郎は背筋を伸ばし、気息を整える。
 その様子を、板垣信方は心配そうに見つめていた。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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