「まあ、よかろう。これだけ打ちのめせば、今川もしばらくは当家に手を出せまい。こたびの戦は非の打ち所なき余の勝利だ。さような機会に生まれたのだから、勝千代とでも名付けるとするか。千代に勝ち続ける。武田の子にふさわしい、なかなか良き名であろうが」 「素晴らしき御名にござりまする」 「ところで、信方」 「はっ」 「物の序(つい)で、という言葉もある。このまま、そなたが勝千代の傅役(もりやく)となれ」 意味ありげな冷笑を浮かべ、信虎が言い渡す。 「ははっ。有り難き仕合わせ。身に余る栄誉にござりまする。一命を賭して務めさせていただきとうござりまする」 信方は両手をつき、深々と頭を下げる。 ──もしも、御子が幼いうちに、もう一度、今川の大軍が攻めてきたならば、御屋形様はこたびと同じ命令を下されるのであろう。されど、よかった。この身が傅役である限り、勝千代様に容易く自害などさせぬ。 すでに覚悟は決めてあり、信方の胸の裡では心配よりも安堵が勝っていた。 この年、今川の大軍を撃退し、武田信虎の甲斐統一がより鮮明に見えてきた。 心配された報復の出兵はなく、今川家はしばらく武田に手出しをしなくなった。武田家の内訌が大きな節目を迎えたということである。 誕生した正室の長男は勝千代と名付けられ、この童はやがて太郎晴信(たろうはるのぶ)と名乗ることになる。 しかし、後の世に武田信玄(しんげん)と呼ばれ、戦国大名の魁(さきがけ)と称えられる英傑になるということは、まだ誰にもわかっていなかった。