「まあ、普通に訳せば、さようなところであろう。さて、そちが暗誦した二つの節を並べてみて、何か気づかぬか?」 信虎は恐ろしいほどの酔眼で息子を睨む。 「……わ、わかりませぬ」 身を縮め、太郎が小さく答える。 「わからぬはずがあるまい。そちは三略の冒頭が、君主の徳を最も分かり易く示していると申したではないか。つまり、君主たる将の心得だということであろう」 「……は、はい」 「ならば、なにゆえ、三略が『衆と好みを同じうすれば、成らざるは靡(な)く、衆と悪(にく)しみを同じうすれば、傾むかざるは靡し』と説くのに、孫子は『愛民は煩わさるべきなり』と逆のことを申しておるのだ? 双方とも、将であることを極め、君主の至高を極めるための教えではないのか?」 言われてみれば、その通りだった。 だが、太郎に答えられるだけの言葉は浮かんでこない。 「ああ、そうか。三略は最初に君主の徳を説いておるが、孫子は将の心得しか説いておらず、君主の徳まで至らなかったということか。ならば、そちは孫子が三略よりも劣っており、君主の徳は説けぬ愚昧者(おろかもの)だと言いたいのだな」 「……い、いいえ」 「ならば、なんだ? 孫子の五危が正しく、三略の説く君主の徳とやらが、甘っちょろいだけの空論だと申すのか?」 「……いえ」 「どっちなのだ。はっきりとせよ! いずれも、そちが暗誦してみせた心得ではないか。どちらが正しいか、語った者が白黒をつけよ」 父に詰められ、ついに太郎の右眼から一筋の泪がこぼれ落ちる。 「泣いても、済まぬぞ! さきほど余が申したであろう。人の上に立つ者は、己の言に責任を持たねばならぬ、と。孫子や三略に較べれば、ごく当たり前のことしか申しておらぬが、君主でありたいならば、これが最も大事なことぞ!」 信虎の剣幕はさらに激しくなる。 もう誰にも止められそうになかった。 「……すみませぬ」 一度流れた泪は止めようがなく、太郎は大粒の泪をこぼし続ける。それでも、己の何が父の逆鱗に触れたのか、わからなかった。