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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「まあ、普通に訳せば、さようなところであろう。さて、そちが暗誦した二つの節を並べてみて、何か気づかぬか?」
 信虎は恐ろしいほどの酔眼で息子を睨む。
「……わ、わかりませぬ」
 身を縮め、太郎が小さく答える。
「わからぬはずがあるまい。そちは三略の冒頭が、君主の徳を最も分かり易く示していると申したではないか。つまり、君主たる将の心得だということであろう」
「……は、はい」
「ならば、なにゆえ、三略が『衆と好みを同じうすれば、成らざるは靡(な)く、衆と悪(にく)しみを同じうすれば、傾むかざるは靡し』と説くのに、孫子は『愛民は煩わさるべきなり』と逆のことを申しておるのだ? 双方とも、将であることを極め、君主の至高を極めるための教えではないのか?」
 言われてみれば、その通りだった。
 だが、太郎に答えられるだけの言葉は浮かんでこない。
「ああ、そうか。三略は最初に君主の徳を説いておるが、孫子は将の心得しか説いておらず、君主の徳まで至らなかったということか。ならば、そちは孫子が三略よりも劣っており、君主の徳は説けぬ愚昧者(おろかもの)だと言いたいのだな」
「……い、いいえ」
「ならば、なんだ? 孫子の五危が正しく、三略の説く君主の徳とやらが、甘っちょろいだけの空論だと申すのか?」
「……いえ」
「どっちなのだ。はっきりとせよ! いずれも、そちが暗誦してみせた心得ではないか。どちらが正しいか、語った者が白黒をつけよ」
 父に詰められ、ついに太郎の右眼から一筋の泪がこぼれ落ちる。
「泣いても、済まぬぞ! さきほど余が申したであろう。人の上に立つ者は、己の言に責任を持たねばならぬ、と。孫子や三略に較べれば、ごく当たり前のことしか申しておらぬが、君主でありたいならば、これが最も大事なことぞ!」
 信虎の剣幕はさらに激しくなる。
 もう誰にも止められそうになかった。
「……すみませぬ」
 一度流れた泪は止めようがなく、太郎は大粒の泪をこぼし続ける。それでも、己の何が父の逆鱗に触れたのか、わからなかった。

「よいか、余にとっては三略など牡丹餅の如く甘過ぎて何の足しにもならぬ! 民と好みを同じくすれば成し遂げられないことはなく、民の嫌う事を同じくすれば傾かない者はいない、だと! 国を治めて家を安んずることは、人を得て初めて成し遂げられる、だと! 国を滅ぼし、家が敗れるのは、人を失うからである、だと! 三略とはすべて反対のことをやってきたが、この命は残り、甲斐一国は微動だにしておらぬわ! だから、余は皮肉としか聞こえぬと申したのだ」


 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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