連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 ──それにしても、御屋形様から命じられた役目は、あまりに辛すぎる……。
 表向きの仕事は警護だったが、与えられた指示はそれだけではない。
 傾斜のきつい坂を上りながら、信方は主君の苛烈な言葉を思い出す。
『こたびの戦で今川家に新府まで攻め込まれたならば、武田家は終わりだ。もちろん、負ける気は毛頭ないが、なにせ相手の兵数が多いゆえ、もしもということがないとは断言できぬ。余がこの躑躅ヶ崎館に戻れなくなった時は……』
 武田信虎は一息つき、家臣の親子に視線を向ける。
 犀利(さいり)な餒虎の眼がそこにあった。
『……御方と竹松を自害させよ。そなたら親子が介錯してやってくれ』
 それを聞き、信方は己の顔から血の気が失せていくのがわかった。
 父の信泰も同じ様子だったが、消え入りそうな声で主君に聞き返す。
『……どこかへ、お逃げいただく……のではなく、にござりまするか?』
『逃がしても追手に捕まり、惨めな人質となるだけだ。それは偲びないゆえ、自害させよと申しておる。自ら命を絶てぬ時は、そなたらが手を貸してやればよい。さすれば、余に不覚があっても、すぐにあの世で再会できようて』
 武田信虎はそう言いながら薄く笑う。
 その酷薄な笑みを、信方は生涯忘れることができないだろうと思った。
 主君の正室と長男の自害を介錯するということは、それを見届けた後に、己も殉死しなければならないということである。一門が滅びるとなれば、主君やその身内に殉ずることは、武士(もののふ)として当然の心得だった。それに対する迷いはない。
 しかし、この役目には、もっと苛酷な意味が隠されている。
 女人や童の自害は短刀で喉を突くなどして行われるが、よほどの覚悟をしていても簡単にできることではない。つまり、どうしても主君の正室や長男が自害できない時は、信泰と信方の親子が手を下さなければならないということである。
 ──そんなことをするくらいならば、戦場(いくさば)で斬り死にする方がまだましだ。なにゆえ、この身がさような役目を……。
 信泰と信方の親子は同じ思いを抱きながら、主君の前で立ち竦む。
『かように難儀な役目が廻ってきたのは、なにゆえか?』
 武田信虎は二人の心を見透かしたように呟く。
『そなたらの面に、そう書いてあるぞ。実直さだけが取柄のそなたら親子は、思うていることがすぐ顔に出る。さように言われても、まだ訳がわからぬか?』
 問われても、二人に返す言葉はなかった。
『答えは、いま申した通り、そなたらが他の誰よりも実直な家臣だからだ。余の申し付けがある限り、よもや、二人を逃したりはすまい。さように思えたからこそ、最も難儀な役目を与えるのだ。されど、案ずるな。余が今川を退治して戻れば、そなたらはただ御方と竹松を警護しただけということになるではないか。密命があったことなど誰に話さずともよいし、武功がなくとも一番槍と同じぐらいの恩賞は与えてやる。逆に、余が戻らなければ、武田の一族郎党は滅するゆえ、誰からも責められることはない。そういうことだ。では、留守を頼んだぞ』
 信虎はそれだけを言い残して出陣した。



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〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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