連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「では、あとはわれらにお任せくださりませ。ご苦労様にござりまする」
「御免!」
 信方は大井の方に挨拶をし、本堂を退出する。それから、庫裡の壁に背をつけ、頽(くずお)れるように座り込んだ。
 軆は靄(もや)のような眠気に覆われていたが、頭の中はしんと冷め、寝てしまいたいという気がおきない。
 両手を腿の上で開き、信方はそれをじっと見つめる。
 その掌には、得も言われぬ赤子の感触が残っていた。小さく弱々しいが、確かに新しい、ひとつの命の重みだった。
 それを感じながら、先ほど脳裡に閃いた事柄を反芻する。
 ──決めた。もしも、この後、御屋形様が今川に敗れたとしても、生まれた御子と御方様に手をかけたりはすまい。
 そんな思いだった。
 ──この身は御方様の自害を介錯せよとは申し付けられたが、生まれた御子を殺めよとまでは命じられていない。御子が誕生してしまった以上、それを守らねばならぬ。どこかに逃がし、御方様が自害できぬのであれば、この身に付いてくればよいだけだ。父上には申し訳ないが、何と言われようとも、そうすると決めたのだ。
 そう思うところが、実直でありながら同時に頑固で信念を曲げない、この漢の特質だった。真の武骨者である。
 信方は立ち上がり、蔀(しとみ)を開ける。すでに白々と夜が明けていた。
 この日、十一月三日に誕生したのは、まごうかたなく男子であった。順調に成長していけば、武田家を嗣ぐことになる。
 信方の肚は決まっていたが、まだ戦は終わっていない。ただ自軍の勝利を願い続けるしかなかった。
 甲斐の気候が一気に冷え込んでいく中、再び戦局が動く。
 八代郡で陣容を整え直していた今川勢が北西へと移動を開始する。
 緒戦で勝利を得た武田勢の士気は高く、信虎は新たな兵糧の調達を行い、要所に藁束を並べて旗幟を林立させる。疑心暗鬼になっている敵に、兵数を多く見せるような偽装を行っていた。
 今川勢は躑躅ヶ崎に攻め入るべく、荒川西岸沿いを北上し、前回の戦場となった飯田河原よりもさらに上流の上条に布陣する。
 武田勢もそれに呼応して陣を立て、相手の渡河を誘うために罵詈雑言を投げつける。
 そして、二十三日の日没前、上条河原で再び両軍が激突した。
 陽が沈むと、辺りに小雪が舞い散りはじめ、その中で夜を徹して戦いが続く。
 昏(くら)くなってしまえば、地勢を熟知した武田勢が圧倒的に有利であり、重臣の荻原昌勝が遊軍となって多数の今川勢を翻弄する。
 敵が戸惑う中、精鋭の槍騎馬を率いる原友胤(ともたね)が敵本陣へ突撃し、敵総大将の福島正成の首級を挙げた。



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〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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