「では、あとはわれらにお任せくださりませ。ご苦労様にござりまする」 「御免!」 信方は大井の方に挨拶をし、本堂を退出する。それから、庫裡の壁に背をつけ、頽(くずお)れるように座り込んだ。 軆は靄(もや)のような眠気に覆われていたが、頭の中はしんと冷め、寝てしまいたいという気がおきない。 両手を腿の上で開き、信方はそれをじっと見つめる。 その掌には、得も言われぬ赤子の感触が残っていた。小さく弱々しいが、確かに新しい、ひとつの命の重みだった。 それを感じながら、先ほど脳裡に閃いた事柄を反芻する。 ──決めた。もしも、この後、御屋形様が今川に敗れたとしても、生まれた御子と御方様に手をかけたりはすまい。 そんな思いだった。 ──この身は御方様の自害を介錯せよとは申し付けられたが、生まれた御子を殺めよとまでは命じられていない。御子が誕生してしまった以上、それを守らねばならぬ。どこかに逃がし、御方様が自害できぬのであれば、この身に付いてくればよいだけだ。父上には申し訳ないが、何と言われようとも、そうすると決めたのだ。 そう思うところが、実直でありながら同時に頑固で信念を曲げない、この漢の特質だった。真の武骨者である。 信方は立ち上がり、蔀(しとみ)を開ける。すでに白々と夜が明けていた。 この日、十一月三日に誕生したのは、まごうかたなく男子であった。順調に成長していけば、武田家を嗣ぐことになる。 信方の肚は決まっていたが、まだ戦は終わっていない。ただ自軍の勝利を願い続けるしかなかった。 甲斐の気候が一気に冷え込んでいく中、再び戦局が動く。 八代郡で陣容を整え直していた今川勢が北西へと移動を開始する。 緒戦で勝利を得た武田勢の士気は高く、信虎は新たな兵糧の調達を行い、要所に藁束を並べて旗幟を林立させる。疑心暗鬼になっている敵に、兵数を多く見せるような偽装を行っていた。 今川勢は躑躅ヶ崎に攻め入るべく、荒川西岸沿いを北上し、前回の戦場となった飯田河原よりもさらに上流の上条に布陣する。 武田勢もそれに呼応して陣を立て、相手の渡河を誘うために罵詈雑言を投げつける。 そして、二十三日の日没前、上条河原で再び両軍が激突した。 陽が沈むと、辺りに小雪が舞い散りはじめ、その中で夜を徹して戦いが続く。 昏(くら)くなってしまえば、地勢を熟知した武田勢が圧倒的に有利であり、重臣の荻原昌勝が遊軍となって多数の今川勢を翻弄する。 敵が戸惑う中、精鋭の槍騎馬を率いる原友胤(ともたね)が敵本陣へ突撃し、敵総大将の福島正成の首級を挙げた。