第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)3
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
妻女山の一帯が決定的に有利な地形とは思えず、海津城や川中島を見下ろせるとはいえ、それ以上の狙いがはっきりしない。
この山への布陣。
それは己が敵の総大将ならば、絶対に取らないと断言できるような策だった。
――眼下には千曲川が迫り、渡しはたった二カ所しかない。その対岸を大軍に囲まれ、海津城の軍勢に挟撃されたならば、すぐに全軍が行き場を失ってしまうであろう。そのまま兵粮攻めにでもされ、それが長きにわたれば、ひとたまりもない。
信玄が考えるに、一万三千の越後勢が武田勢と戦う布陣にしては、敵の懐中に深く入りすぎており、余りにも危険が多かった。
一方、香坂昌信が守る海津城には三千余の城兵しか入っていないが、それでも武田方の最前線を守る要城(かなめじろ)とされたことには確たる理由がある。
川中島の方面から海津城を攻めようとする敵には、千曲川が巨大な水堀の役目を果たし、寄手(よせて)の動きが著しく制限される。城の付近で渡河できるのは、わずかに一カ所、寺尾の渡しだけである。
しかも、敵がここを使えば、その動きは城の物見櫓から丸見えだった。
さらに、うまく渡河できたとしても、城の周囲には千曲川の流れを引き込んだ堀が幾重にも切られており、安直に力攻めができない。さほど大きくない平城にしては、なかなかに堅固な防御がなされていた。
だが、海津城の本当の強みは、背後の地勢にあった。
山裾にあたる城下には英多(あがた/松代〈まつしろ〉)の里が広がっているが、城を出て象山口と呼ばれる処(ところ)から山道を登っていくと狼煙山に到達する。ここは烽火(のろし)を上げて各城に急変を知らせるための砦があり、十名ほどが交代で伝令役を務めていた。
そこから奥には、険阻な山岳が連なり、烽火山砦から山間を進むと隠し道が現れ、曲がりくねった登山道は奥の地蔵峠へと続いている。ここを頂点として急坂を下ると、一気に小県郡まで出ることができた。
その先には、味方の真田幸隆が守る砥石城があった。
つまり、籠城が敵(かな)わないと見れば、海津城の兵たちはこの隠された山道を使って味方のいる小県郡上田(うえだ)の里まで撤退できるのである。
信玄が城将の香坂昌信に与えた秘計とは、まさにこの撤退方法だった。
「敵をぎりぎりまで城に引きつけ、全滅するほど籠城が危ういとみたならば、城を焼いて逃げてもよし」
そのように命じていた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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