よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)3

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「されど、手をこまぬいていれば、城兵が全滅するやもしれませぬ」
 義信が険しい面持ちで言う。
「焦って動けば、かえって相手の思う壺に嵌(は)まるだけだ。海津城が全滅の危機に瀕することもあり得るというのは、城将の昌信が最もよくわかっているであろう。兄上の御言葉を借りるならば、あ奴はなかなかに見切りの早い漢(おとこ)らしい。まことに危なくなれば、自城も捨石として使える才覚を持っており、ぎりぎりの機微で城兵を逃がす智慧(ちえ)もあるということだ。この局面で敵の総軍が動くようならば、無理な籠城はしないかもしれぬ」
「それゆえ、父上は慌てて救援に向かうな、と」
「にしても、景虎の動きはあまりに兵法の常道からかけ離れている。兄上が孫子(そんし)をはじめとする兵法に精通しておられることを知り、それを逆手に取るつもりなのだとしても、妻女山への布陣は不可解すぎる。つまり……」
「つまり?」
「相手の狙いが読めそうで読めないところが、この戦の最も難儀なところかもしれぬな」
「なるほど……」
 義信は叔父の解説を聞き、やっと父の深い思惑を理解した。
「義信、出陣の機さえも、相手との駆け引きのひとつとなったということだ」
「わかりました。ご教示、ありがとうござりまする。今後も、色々とお教えくださりませ」
「ああ、いつでも話にくるがよい」
 信繁は笑顔で甥の肩を叩いた。
 この日、甲府では慌ただしく戦支度が始められる。
 ところが夕刻近くになり、にわかに天候が崩れだした。
 空を雨雲が覆い、大粒の雨が落ち始める。さらに強風も吹き始め、日没後にはそれが暴風へと変わった。
 このまま暴風雨が続けば、出陣さえ危ぶまれるという事態となる。
 ――天の気まで、景虎の味方をするというのか……。
 武者窓の蔀(しとみ)を開け、信玄は腕組みをし、押し黙ったまま荒れ狂う風雨を眺めていた。
 その背中に、信繁が声をかける。
「兄上……」
「おお、典厩か。いかがいたした」
「さきほど、川中島の三ッ者(みつもの)どもから上がった報告が届きました」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number