第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)3
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
父の保科正則(まさのり)は伊那の国人で、最初は武田の信濃侵攻に抵抗していたが、正俊は武田に降(くだ)って家臣となった。
「勝頼は御父上様の言いつけの通り、一人で稽古に邁進(まいしん)いたしまする」
「その意気だ」
信玄は諏訪御寮人の面影を宿して成長した四男を慈愛に満ちた目で見つめる。
「御父上様、御武運をお祈りしておりまする」
勝頼は再び両手をついて平伏した。
この後、離ればなれとなっていた親子は夕餉を共にし、久方ぶりに水入らずの時を過ごした。
翌日、諏訪衆と伊那衆を加えた信玄の本隊は、上原城から和田(わだ)峠を越えて立科(たてしな)の長窪(ながくぼ)城へと進む。
その間にも、海津城から香坂昌信が放った早馬が駆けつけ、本隊との周密な連絡を取り合う。川中島から報告が寄せられたが、越後勢は相変わらず不気味な沈黙を続けているらしい。
こうした武田勢の動きを知ってか知らずか、上杉政虎は海津城を放置したまま、妻女山で酒宴を続けている。
信玄にとっては、そのふてぶてしさが信じ難い居直りに思えた。
いよいよ八月二十二日の朝を迎え、信玄は長窪城から上田原の塩田城をめざしてへ進む。
本隊とは別に、深志城から松本(まつもと)衆、内山(うちやま)城と小諸(こもろ)城からは佐久(さく)衆、そして、砥石城から真田衆がこの地を目指していた。
本隊の行軍は順調だった。
だが、北国(ほっこく)街道へ駒を進めるうちに、信玄の脳裡には忌まわしい村上義清との一戦が蘇ってくる。この上田原一帯には、忘れようとしても忘れられないほどの苦い記憶が満ちていた。
自らも二箇所の深手を負わされ、板垣信方や甘利(あまり)虎泰(とらやす)の重臣を討ち取られ、一千ほどの将兵を失う惨憺(さんたん)たる結果だった。
齢二十八にして初めての敗北。いや、痛恨の大敗だった。
そして、この敗戦の影響は、予想以上に大きく武田家の信濃侵攻を揺るがす。やはり、信玄を支えてきた重臣二人を失ったことが大きく影を落とした。
佐久、小県、筑摩(ちくま)の国人(こくじん)衆や土豪、西諏訪衆などが反武田の同盟を結んで村上義清のもとに集結し、信玄は大いなる危機を迎えた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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