「……されど、それがしならば、すぐに兵をまとめて動けまする。どうか先鋒（せんぽうとして川中島への派遣をお命じくださりませ」
「そなたの気持ちは、よくわかった。だが、焦りは禁物だ。すでに陣触（じんぶれ）を発する手筈（てはず）を整え、余も出張る支度をいたすゆえ、そなたも準備を怠るな。こたびは少々、難しい戦になるやもしれぬ」
「はぁ……。わかりました」
　義信が黙り込む。
　さらにそこへ、弟の信繁がやって来る。
「兄上、失礼いたしまする。おっ、義信。そなたも来ていたのか」
「叔父上、ご苦労様にござりまする」
「そなたも一緒に話を聞いておくか。兄上、また厄介なことになりましたな」
「ああ、どうやら、そのようだ。これを見てみよ」
　信玄は二人の前に地図を差し出す。
　それから、馬場信房に語った己の見解を聞かせた。
「……あの海津城が丸ごと人質にされるなど、にわかには信じられませぬ」
　信繁が小さく溜息をつく。
「あくまでも今は余の予想に過ぎぬが、他に狙いがあると思うか、典厩？」
「城兵の命を救う代わりに、海津城を無血で開城し、武田勢が善光寺平から撤退せよ、とか……」
　信繁の答えに、義信が怒りを露わにする。
「景虎は『依怙（えこ）で弓箭を取らぬ』と嘯（うそぶ）いているそうにござりまするが、善光寺平にいったい何の大義があるというのか！」
「越湖へ逃げた信濃の者どもが生きている限り、それが大義名分だと言い張るつもりなのであろう」
　信玄が素っ気なく答えた。
「なんと都合の良い方便か！」
　義信が吐き捨てる。
　嫡男の言葉を聞き、どこからともなく政虎の不敵な笑い声が聞こえてくるような気がした。
　すると、急に言い様のない怒りが胃の腑（ふ）からせり上がってくる。
　信玄はそれを振り払うように憤懣（ふんまん）やるかたない口調で吠（ほ）える。
「信濃での決着は、とうについておろうが！」
　兄の剣幕に驚いた信繁と義信が思わず顔を見合わせた。
「余はすでに朝廷や幕府が認めた信濃守だ。つまり、信濃一国は京の都が認めた武田の所領である。なにゆえ、己がさしたる利も得られぬ川中島の戦へと出張り、景虎は余を煩わせよるか！　善光寺平は越後の内だ、とでも言い張るつもりか、世迷者（よまいもの）めが！」