よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)3

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 山本菅助も微かに首を傾げる。
「景虎が奥の山に砦でも築こうとしているということではありませぬか?」
 馬場信房が菅助に訊ねる。
「妻女山の奥にある鞍骨山には、元々、清野の一族が築いた詰城(つめじろ)がありまする。清野清秀(きよひで)は村上義清の配下で一緒に越後へ逃げましたゆえ、海津の城を築く時、麓の西条にあった清野館と鞍骨山の詰城は、われらが破却しておりまする。今では蝮(まむし)の巣にでもなっていると思いますが」
「なるほど、ならば、砦を築くというのが狙いではないと。御屋形様、これだけ時が経っていながら越後勢が動かぬということは、われらが川中島に現れるまで景虎が動かぬつもりでいると見た方がよろしいのではありませぬか」
 馬場信房が己の見解を述べる。
 それは信玄の読みと同じところを突いていた。
「信房、余もさように思う。されど、ここ数日、敵の狙いを考えあぐねておるのだ。この場におる者は、それぞれに孫子の兵法を熟知している者ばかりだと思うが、敵の布陣をいかように読むか?」
 信玄は一同を見回してから、地図に眼をやる。
「未だ妻女山を動かぬ景虎。果たして、あの者は高陵の背丘(はいきゅう)に陣取る智者であるか。それとも、絶地の高みに長く留(とど)まる愚者であるか。皆は、どちらと見るか?」
 その問いかけに、嫡男の義信が手を挙げる。
「父上、お言葉にござりまするが、なにゆえ景虎の真意など読む必要がありましょうや。高陵の智者と解すれば、われらの心にわずかながらでも恐れが生まれまする。わざわざ相手を恐れるような読みなど論外にござりまする」
 静かな口調で言葉を続ける。
「かたや、絶地の愚者と解すれば、われらの心にわずかながらでも相手を侮る隙が生まれまする。その隙につけこまれ、罠にはまらぬとも限りませぬ。それゆえ、それがしはあえて、どちらとも見ませぬ。肝要なのは、ただ敵がその場所にいるということだけ。敵の真意を読む必要はないのではありませぬか。景虎が手の内に何を隠していようとも、われらが川中島へ行けばすぐに明らかとなりまする。ならば、今は妻女山に布陣したということのみを見つめ、われらが川中島に入る経路と布陣する場所の最善を考えればよろしいかと」
 義信は感情を抑えた声で淡々と語った。
「ほぉ」
 一同が小さく息を漏らす。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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