第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)3
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
信玄はこの来国長が打った二尺六寸一分七厘の業物(わざもの)を己の佩刀としていた。
「国長とな。それは、いかぬ。明日、野分晴れになっても、余が出陣の際に佩く太刀がなくなったのでは、本末転倒だ」
二人は顔を見合わせて笑う。
この暴風雨は深夜に激しくなったが、厚い雨雲は払暁前に北東へと去っていった。
信繁が予言した通り、一夜限りの野分にすぎなかった。
朝になると空は真っ青に冴(さ)えかえり、辺りを爽やかな松籟だけが吹き渡る。
所々に残った水溜まりも澄み切った空色を映し、つがいの赤蜻蛉(あかとんぼ)が産卵のために群がっていた。
そんな中、信玄は躑躅ヶ崎館の御霊舎(みたまや)へ向かった。
そこでは出陣の支度が調えられ、総大将が行う儀式が待たれていた。
厳かな沈黙の中、信玄は御旗(みはた)と楯無(たてなし)が祀(まつ)られた神棚の前へ進む。
御旗とは、平安朝の治世に源(みなもとの)頼義(よりよし)が後冷泉(ごれいぜい)天皇より源氏の棟梁(とうりょう)である証として下賜された日の丸の旗である。
一方、楯無とはその名の通り、楯も必要としないほどの頑丈さを誇る古式大鎧(おおよろい)の称号であり、源義光(よしみつ)の伝来とされる源氏(げんじ)八領のうちのひとつである。
新羅(しんら)三郎(さぶろう)と呼ばれた義光は甲斐源氏の始祖であり、楯無はその末裔(まつえい)で惣領となる者にだけに相伝された。
河内(かわち)源氏の二代目惣領、源頼義から三男の義光に御旗が託され、それが甲斐で楯無と一対となり、甲斐源氏の正統を証明する誉れとして武田家の惣領に受け継がれることになったのである。
待機していた神人(じにん)の大幣(おおぬさ)で左右左(さうさ)の祓(はら)えが行われ、それを受けてから信玄が床几(しょうぎ)に腰掛ける。大幣とは、祓串(はらえぐし)に紙垂(しで)と大麻(たいま)を括(くく)り付けた神具だった。
それから、戦の勝利を願う厳かな祝詞(のりと)が響いた。
その朗誦が終わると、引き続いて三献の儀が行われる。別の神人が肴組(さかなくみ)の載った高脚の膳を運んできた。
肴組とは、白い土器の三重盃(さんじゅうはい)と「打ち、勝ち、喜ぶ」を表す縁起物、打鮑(うちあわび)、勝栗(かちぐり)、結昆布(むすびこぶ)を折敷(おしき)の上に載せたものである。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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